ますたーの研究室

英詩を研究している大学院生が、日常に転がるあらゆる「大好き」な物事を気ままに考察・研究するブログです。

わりと本気で、比類なきアニメだと思う。―『ヘボット!』を激推しするヘボ。

1. はじめに

 

ヘボット!』のDVDーBOXを、先ほど予約しました。

 

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↑「やった(ヤッチマッタ)ヘボ。」

 

ヘボット!』ってなんのアニメ?という方が(私のリアル知り合いについては)大半だと思うのですが、プリキュアクラスタおよびニチアサクラスタにとってはおなじみでしょう。日曜の朝7時にやっていたあの「脳が溶けるアニメ」です。

 

まずは、『ヘボット!』そのものの具体的な紹介の前に、今作のDVD-BOXについて説明をしたいと思います。

 

完全予約限定生産の今DVD-BOX、「そもそも予約数が300に達さないと製造しない」というところからスタートしました。

 

300で発売決定。400で収納ボックスとオーディオコメンタリーが追加。500で…、1000で…、というように、予約数が増えていくに従ってどんどん特典内容が豪華になっていきます。

 

そして一番上の3000に達せば「夢の超豪華ハリウッドセレブ仕様」となり、「全話収録のBlu-ray Box」が追加されます。

 

 

 

……え。

 

 

 

「全話収録のBlu-ray Box」が追加特典としてついてきます。

 

 

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↑ほんとその通りだよ……

 

 

「お値段据え置きで「DVD-BOX」の他に「Blu-ray BOX」がついてくる」という頭おかしい仕様が、『ヘボット!』の本質を端的に表していると思うのですが、実は現在(10月13日現在)予約数が3000間近に達しており、締め切りギリギリのタイミングですが、(予約は10月15日まで)もう少しでこの「夢の超豪華ハリウッドセレブ仕様」になりそうなのです。

 

これは、、「予約する」しか、、ないヘボ……。

 

完全に筆者も脳が溶けきってしまったので思わずポチッとしてしまいました。『ヘボット!』恐ろしい……。

 

 

2. 『ヘボット!』を激推しします。

ヘボット!』のことを端的に紹介しましたが、筆者の評価としては『ヘボット!』を表題の通り、「わりと本気で、比類なきアニメだと思う」と激賞しています。

 

実のところ、筆者はプリキュアクラスタであるにも関わらず『ヘボット!』の熱心なリアタイ勢ではなく、まさかの「2017年9月24日放送の最終回のみをリアタイ視聴した」だけでした。

 

さすがに最終回だけ見てもわけがわからなかったのですが、「なんかすごいアニメだ」というのはなんとなく感じたのです。

 

そしてさかのぼって1話から視聴を始め、ここ2週間くらいは死ぬほど『ヘボット!』を見まくっていました。文字通り『ヘボット!』に激ハマりし、沼にずぶずぶと浸かっていったのです。最終的に、先ほどのDVD-BOX予約へと至りました。

 

ついでに言っておくとアニメのBOXを買うのは生まれて初めてです。初めてが『ヘボット!』なのか……。

 

さて、なぜ私がこんなにも『ヘボット!』が好きになったのかを簡単に紹介すると、おそらく「非常にチャレンジングなアニメ作品である」というところにあるのではないかと思います。

 

 

例えばこれは最終回の一幕ですが、『ヘボット!』はもう失うものが何もないからなのか、昨今のアニメ作品に対して非常に好戦的かつ本質的な批判を展開します。

 

ヘボット!』はまさに「見た瞬間に全てが一目瞭然なわかりやすいアニメ作品」の対極にある存在であり、表向きには小学生の男の子をメインターゲットに据えたドタバタギャグアニメの体裁を取っている一方で、一度見ただけでは何を言いたいのかわからない難解な表現方法を多用し、「ループもののSF的世界観」という複雑なプロットを背後に隠し持ちながら、時おりシリアスアニメとしての牙を容赦なく剥き出しにしてきます。

 

幾度となく提示される多数のアニメ・映画作品等のパロディとオマージュ、意味のわからないナンセンスギャグ、朝にふさわしくないえげつない下ネタ、等々が何の脈絡もなく30分間延々と繰り広げられるその独特の作風は、「脳が溶けるアニメ」と呼ぶにふさわしいものとなっています。

 

また、その一方で第1話からしっかりとシリアスなSF的世界観の伏線を張り巡らせており、「ただのナンセンスギャグだと思っていたものが実は重要な伏線だった」という「思いがけない視聴者への裏切り」が『ヘボット!』中毒にさせてきます。

 

 

ヘボット!』がギャグアニメに見えて、実態は巧妙に作り上げられたSF作品であるというは強調しておきたいことです。

 

実のところ、自分も本編を1週しただけなのでよくわかっていないところが多々あります。それも踏まえて『ヘボット!』考察と研究をこれからも続けていきたい所存です。

 

3. 二次創作の推奨

 

また、『ヘボット!』のすごいところは「最終回で公式側が二次創作を推奨した」というところにあります。

 

2017年の10月の番組改編によって「ニチアサタイム」は大きな変化を迎えることとなり、日曜朝7時に続いていた「メ~テレ枠」は40年の幕を下ろすこととなりました。

 

「メ~テレ枠」最後の作品となった『ヘボット!』ですが、40年の歴史の最後を飾るのにふさわしい大作だったと思いますし、最後の最後に「たとえアニメ本編が終わっても、視聴者が思い思いに作品作りをしてくれれば、キャラクターは永遠に生き続ける」という力強いメッセージを残してくれました。

 

前代未聞である公式側の二次創作の推奨について。そもそも『ヘボット!』自体が過去の様々な作品のコラージュの上に、新たな物語世界と表現の可能性を提示しようとした意欲的かつ革新的な作品であったと思います。文学において批評と創作のはざまが曖昧になっていったように、『ヘボット!』においてもオマージュと創作、シリアスとコメディ、意味と無意味、伏線と脱線などの様々な境界線が曖昧となった先に、独特の作品世界とメッセージが出来上がったのだと私は受け取っています。そのような意味において『ヘボット!』は文学的なアプローチを可能とする、研究対象として「興味深い」アニメであり、わりと本気で比類なきアニメだと思うのです。

 

4. おわりに~『ヘボット!』はまたそのうち言及します

本記事では、取り急ぎ「『ヘボット!』のDVD-BOXを予約した」ということと、「現時点で自分の中で言語化できている『ヘボット!』の印象と感想」を紹介しました。

 

非常に熱心な『ヘボット!』考察クラスタによって、『ヘボット!』の作品世界の解明とオマージュ元の推察等の『ヘボット!』研究が進められていますが、正直のところまだ『ヘボット!』の全貌は解明できていないと思います。ですので、(BOXも買ってしまったことだし)私自身も研究対象としてそのうち本格的に扱っていくことにしたいと思います。真面目な話、このアニメは文化研究の恰好の題材でしょう?

 

恐らく、残念ながら日本のアニメの歴史に名を残す「聖典」とはならないマニアックな作品だとは思いますが、すごいアニメであることは間違いないと思いますし、少なくとも私の中の「アニメーション作品の聖典」としてずっと名を残していくことでしょう。

 

ぜひ、見ましょう。そして一緒に脳を溶かしましょう。

↑「ネジ」というモチーフ1つでSF的な世界観をまとめてきたのはマジですごいと思う

 

『キラキラ☆プリキュアアラモード』が描く「多様性」

1. はじめに

キラキラ☆プリキュアアラモード』(『プリアラ』)も折り返し地点を超え、今後もますます面白くなっていく展開から目を離せなくなってきました。

 

さて、プリキュアのメイン視聴者は当然のことながら小さな女の子ですが、いわゆる「大きなお友達」層、そしてその中でも「プリキュア研究」に従事するようなコアなプリキュアファンの間では、最近「多様性」という言葉が注目されています。

 

まずはこちらの記事をご覧ください。

prehyou2015.hatenablog.com

 

プリキュアの数字ブログ」の管理人、kasumiさんはプリキュア研究の偉大な先達と呼ぶべきお方なのですが、氏は「キュアパルフェ」の登場に際して、近年プリキュアが(LGBTの象徴である)「虹」をモチーフに取り入れており、プリキュアが積極的に「多様性」を描こうとしているのではないか、ということを指摘されています。

 

 

プリアラ』のテーマは「多様性」である。

 

私もそう思います。

 

 

今日はプリキュア研究の実践です。『プリアラ』の描く「多様性」について考察します。

 

2. 「虹」というモチーフについて

「虹」について、詳しいことはすべてkasumiさんの記事にまとまっているので、正直ここで付け加えることはほとんどありません。が、これから議論を進めていくにあたって、私自身も「虹」というモチーフについて簡単にまとめておきたいと思います。

 

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まずはレインボーフラッグ。

 

レインボーフラッグはLGBTレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダー)の尊厳と社会運動を象徴するものであり、性の多様性と多様性を尊重した社会や文化の在り方を表現しているものと言えます。

 

で、『プリアラ』6人目の追加戦士となったキュアパルフェは虹色のプリキュアであり、昨年の『魔法つかいプリキュア』に引き続き、プリキュアは「虹」というモチーフを導入してきました。

 

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虹色のプリキュア、キュアパルフェの変身シーンですが、背景には虹が大きく架かっています。

 

この「虹」というモチーフ、後期ED『シュビドゥビ☆スイーツタイム』の映像にもあちこちに登場しており、何らかの意図を込めて「虹」を積極的に用いているのは間違いないと思います。

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ジェラートとマカロンの背景にしれっと描かれている虹

 

レインボーフラッグに代表される、「多様性」の象徴である「虹」を意識的にモチーフとして使っていることには、「プリアラが多様性を描いていく」というメッセージが暗に示されていると考えます。

 

3. 『プリアラ』での「多様性」と「個性」

「虹」に何か意味がありそう、ということを確認したところで、次は『プリアラ』が描く多様性について指摘していきます。

デザイン

まず、プリキュアのデザインについてです。

本作は追加戦士を含め6名もいる大所帯のチームなのですが、6人のデザインは特徴的なほどに統一感がありません。この「チームとしての統一感のなさ」は、それこそ『シュビドゥビ☆スイーツタイム』の6人横並びの絵を見れば一目瞭然なのですが、これを過去作の大所帯プリキュアとも比較してみます。

 

(2008年『Yes!プリキュア5GoGo!』)

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(2012年『スマイルプリキュア!』)

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(2013年『ドキドキプリキュア!』)

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(2017年『キラキラ☆プリキュアアラモード』)

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↑この絵にもパルフェの後ろに虹がありますね

 

「『プリアラ』のデザインには統一感がない」と言いましたが、これは少し語弊があります。

プリアラ』のデザインには「スイーツ」と「アニマル」という統一的なモチーフがあり、各人がそれぞれのモチーフをあしらった衣装を着ています。なので、全員がまるで共通項がなくバラバラな格好をしている、というわけではありません。

 

しかしながら、比較対象として出した3作品と本作においては、デザインの在り方が根本的に違うような気がします。前者が「それぞれのベースとなる統一的な衣装があり、それのカラー違いを着ている」という印象を与えるのに対し、後者は「スイーツとアニマルという統一的なモチーフはそれぞれにあるものの、色もデザインもバラバラの衣装を着ている」という印象があるように思います(すいません、うまく伝わったか自信がありません)。

 

OPテーマの歌詞

kasumiさんは『魔法つかいプリキュア!』の多様性を論じるにあたって、OPテーマ『Dokkin 魔法つかいプリキュア』の歌詞を分析していますが、私も同様に『プリアラ』のOPテーマ『SHINE!! キラキラ☆プリキュアアラモード』の歌詞を分析することにします。

 

ときめく理由(わけ)は カラフルにみんな(カラフルに♪)

違うけれど、おそろい(おそろい♥)

"大好き" が いちばんのマストアイテム 

 

SHINE!! キラキラ☆プリキュアアラモード

 

この歌の歌詞全体を考えると、『プリアラ』のテーマは「多様性」というよりも「大好き」であろう、ということを考えざるを得なくなるのですが(「大好き」は作中で何度も言及される最重要概念です)、私は「ときめく理由はカラフルに各人違うけれども、大好きという気持ちは共通項として存在する」というメッセージに注目します。

 

「カラフル」という言葉は「虹」のモチーフと共鳴します。

(そういえばレインボーフラッグは6色の虹から構成されますが、プリアラも6人体制、6色によって構成されています)

 

こうして、「虹」「デザイン」「カラフル」といった視覚的モチーフや言葉を並べることによって、「メンバーたちがそれぞれ多様な個性を持っていること」を表現しているのです。

 

第27話からの、それぞれのメンバーがフィーチャーされる「お当番回」を経て、第32話「キラッと輝け6つの個性!キラキラルクリーマー!」では「個性」というキーワードが取り上げられ、続く第33話「スイーツがキケン!?復活、闇のアニマル!」では各々が「スイーツ」について思いを巡らせ、「やはりスイーツはなくてはならない大切で大好きな存在である」という思いのもとに全員がパティスリーに再び集まりました。

 

多様な「個性」を有した仲間たちが、「スイーツ」という大好きな共通項のもとに共同体を営んでいく。

 

プリアラ』はそんな物語だと思います。

 

4. これからの『プリアラ

とはいえ、これからの『プリアラ』の方向性に若干の不安を感じるのも事実です。

 

私が一番懸念に思っていることは、果たしてパティスリーのメンバーたちは、「バイト仲間」から先に進むのか、ということです。

 

というのも。『プリアラ』に好意的、批判的関わらず、プリキュアクラスタからよく上がる『プリアラ』の批判点に、「仲間たちがあまり仲良さそうに見えない」というのがあります。

 

まあ仲悪いわけでは当然ないのですが、パティスリーがなかったら多分友達になってないし、お菓子作り以外に6人でのプライベートの交流はなさそう(あきゆかとかはありますが)。要は、プリアラの関係性は内面の絆に裏打ちされた「友達」ではなく、スイーツを作ってパティスリーを営む「仕事仲間」なのです。

 

これと原因を同じくして、各人の「お当番回」ではスポットが当たっている誰か1人以外のキャラクターは、かなり存在感が薄いというのが良くも悪くも『プリアラ』の特徴となっています。

 

そして、より大きな問題なのが、これから最終決戦へと向かっていくにあたって、「燃え」が足りるかどうか。

 

これはプリキュアが面白かったかどうかの印象を左右する大きな要素なのですが、「バイト仲間」の関係性のままだといまいち「燃え」が足りなくなってしまうような気がするんですよね……。

 

そこで私が読み込んでいきたいのが「家族」という共同体の在り方。

 

私は『プリアラ』の家族描写は素通りすべきではない、という印象をもっています。いちかお当番回の家族エピソードがどれも秀逸な出来だったのを始めとして、お嬢様のあおい、おばあちゃんから「手がかからない子」と言われ続けたゆかり、病弱な妹に献身的な姉のあきら、姉弟のほんのすれ違いが大きな問題になってしまったキラリンとピカリオ等々、『プリアラ』では「家族」の問題がクローズアップされている気がします(ただ、ひまりに至っては「何かありましたっけ」ってくらい家族描写が出ていないですね……)。

 

というか、一般的に想起されるような「家族全員が揃った団欒の場面」というのをいちかの宇佐美家以外に見たことがない。これは、私が『プリアラ』の特徴として特に注目しているところです。それと対をなすかのように、毎回毎回、プリアラのメンバーたちがパティスリーに揃ってお菓子作りに励む様子が描写されます。

 

さらに、最近ではかつての敵であったビブリーもパティスリーの輪の中に入るようになりました。パティスリーの多様性の肯定には、敵も味方も関係ないのです。

 

スイーツという大好きな共通項をもとになんとなく集まっていたパティスリーの仲間たちが、いつの間にか「家族」と呼べるような共同体へと変化していた。

 

もし、こういう力強い絆の表象の展開に持って行けたとしたら、最終決戦に向かって十分な熱量を保持したまま最後まで燃えていけると思います。

 

ただ、この通りに展開が進むと、明確に「家族関係」と紹介されていた前作『魔法つかいプリキュア!』の関係性ともろ被りしてしまうので、このまま「バイト仲間」としての関係性を維持し、「職業としてのプリキュア」という新路線を走り続けてもいいかもしれません。

 

ですが、「多様な個性を有している個人が、大好きなスイーツという共通項のもとに集まり、家族的な共同体をつくっていく」というのは、現代の「多様性」「共同体」の在り方への1つの答えとして、非常に先行きの明るい解答を表象することになると思うので、私は期待したいです。

 

 

 多様な個性を「レッツ・ら・まぜまぜ!」で、どこまで「まぜまぜ」されるのか。

 

 

プリアラ』も残り1クールちょいとなりましたが、10月末公開の劇場版もありますし、まだまだ期待と楽しみを持って視聴していきたいと思います。

「俺たち」のための最高のポケモン映画―『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』

1. 20周年記念作品としての『キミにきめた!』

 

今年も遅ればせながらポケモン映画を劇場で観賞しました。

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作品の感想を一言で言うと、タイトルの通り「『俺たち』のための最高のポケモン映画」でした。基本的に毎年ポケモン映画は劇場に足を運んで観に行っていますが、今年の作品は文句なしにおすすめできます。ぜひ多くの人に観てほしいですし、特に私と同年代くらいで「昔はポケモンをよく見ていたけど、最近はもうあんまり見なくなっちゃったなあ」という方に強くお勧めしたいです。『キミにきめた!』は、まさにそんなあなたのための映画です。

 

 

今日は備忘録も兼ねて『キミにきめた!』の感想を綴っていきます。なるべく作品の核心部分には触れないようにしますが、多少ネタバレしている部分があるので、まだ観に行ってない方はご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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まず最初に指摘しておくべきこととして、本作は例年のポケモン映画の型を大きく外してきているということが挙げられます。

 

例年ですと、ゲストとなる伝説やら幻やらのポケモンが1~2体いて、そのポケモンにまつわる出来事や事件にサトシ達一行が介入し物語が展開されていく、という構成が取られています。この基本的な路線は第一作目である『ミュウツーの逆襲』から昨年の『ボルケニオンと機巧のマギアナ』に至るまで特に大きく変わることはありませんでした。

 

ところが、本作はアニメシリーズの初代第1話を中心に初代シリーズをまるまる再構成するような形式で作劇がなされており、主人公であるサトシに大きくフォーカスが当たっています。本作のテーマは「サトシとピカチュウの絆」であると同時に「サトシの成長」でもあると言えると思います。

 

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↑『Febri』第43号。ご覧の通り『プリアラ』目当てに買いました。

 

2017年9月発売の『Febri』第43号に、藤津亮太氏による「主人公の条件」というコラムが掲載されています。そこでサトシと『キミにきめた!』について言及されており、非常に興味深いので少し紹介してみることにします。

 

アニメが長続きするための方策として「成長しない主人公像」を描くという手法があります。テレビ番組は視聴者の継続的な視聴によって支えられる部分が多く、それに則るためには「いつ見てもおなじみのノリが楽しめる」ことが重要になってきます。そして、それを実現するにあたって「主人公が成長しない」というのが非常に相性がいいのです。

 

本コラムでは『ドラえもん』や『水戸黄門』が例として挙げられていますが、『ポケットモンスター』についても同じことが当てはまります。主人公サトシは我々視聴者に旅立ちを見せてからもう20年が経ちますが永遠に10歳ですし、各シリーズを振り返ってみても、主人公サトシと一緒に冒険するヒロイン主人公の成長が物語の重点になっていると考えられます(ハルカ、ヒカリ、セレナ等々)。

 

特に2013年から16年にかけて放映された「XY」「XY&Z」シリーズのサトシは間違いなく歴代最強で、見た目的にも精神的にもかなり成熟の進んだ大人なサトシが描かれました。ゲッコウガを筆頭とする手持ちポケモンの強さやバトルタクティクスの巧みさも歴代随一で、マジでリーグ優勝を果たし、ポケモンマスターという夢の実現に大きく近づくのではないかと思いながら見ていました(実際のところカロスリーグでは歴代最高となる準優勝という戦績を残しています)。

 

 

そんな「成長しない主人公」サトシですが、本作ではそれまでの「ある種のタブー」を冒し、時間軸を一気に20年前まで戻して旅立ちの部分から新たに描写を積み上げることによって、「ゼロから成長していく主人公像」を惜しみなく描いていきます。本作においては、ポケモンや人との出会いを通じてサトシが明確に成長を遂げていくのです。

 

 

主人公サトシの成長を描く。

 

アニメでは『サン・ムーン』シリーズから構成やテイストを大きく方向転換したということもありますが、最近のポケモンアニメが描いてこなかった、あるいは意図的に避けていたテーマについて、あえてこの20周年という節目の年に真正面から取り組もうとしているという気概を感じました。

 

2. 「俺たち」の20年分の思い出補正

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「俺たち」とめっちゃ雑にくくりましたが、率直な印象として、本作のメインターゲットは今のちびっ子ではなく「当時リアルタイムで初代ポケモンアニメを視聴していた層である、現在20代~30代の若者」に強くフォーカスが当たっていると感じました。

 

本作はアニメ初代1話のオマージュであると同時に、「もしあのときホウオウがサトシににじいろのはねを渡していたら」と分岐したパラレルワールドの話、いわば「if」の物語であると解釈できるのですが、本作では初代シリーズの流れをなぞる形でサトシの冒険が再構成されていきます。

 

ヒトカゲのくだりや「バイバイバタフリー」のくだりはもちろんのこと、本作でのあらゆる描写が、新しく観るはずなのに「どこかで見たことがあるような気がする」という感慨を抱かせるのです。

 

出てくるポケモンのチョイスもまたずるい。もちろん、マーシャドーを始めとして『S・M』以降の新ポケモンも顔を出すのですが、ピカチュウリザードンバタフリーを筆頭として、イワーク、プリン、オコリザルエンテイポッチャマルカリオレントラー等々、なんというか「脳内で勝手に思い出補正がかかる」ような面々ばかりチョイスされているような印象を受けると同時に、観賞中は何度も思い出や懐かしさでいっぱいになったのを強く覚えています。個人的にはラプラスのくだりが一番「うぉぉぉ」となりやばかったです(語彙力)。

 

このように、本作にはずっとポケモンアニメや映画を観続けてきた往年のポケモンファンが喜ぶファンサービスがてんこ盛りです。だからこそ、「俺たち」のための最高のポケモン映画であると言えますし「最近ポケモンはご無沙汰だなあ」という方にこそ観ていただきたいのです。「すべてのポケモンファンに捧げる」という謳い文句に嘘はありません。

 

3. ポケモンと人間の絆

スクリーンに映る物語によって生まれた「思い出」の波に終始溺れかけていた一方で、もう一つ大きく印象に残ったのが「ポケモンがめっちゃ生き生き動いている」ということです。特に「人間とは全く関係のないルールで回っている野生ポケモンの姿」というのをかなり久しぶりに見たような気がします。

 

というのも。ゲームの『X・Y』から「メガシンカ」という要素が導入されて以来、ポケモンシリーズでは「ポケモンと人間の絆」というのが中心的なテーマになっていました。アニメ・映画での「XY」「XY&Z」シリーズでもメガシンカにまつわる描写を通して「ポケモンと人間の絆」が表象され、壮大な物語が展開されました。

 

これはこれで大変良かったのですが、「ポケモンと人間の絆」を描けば描くほど、常にポケモンが人間と共にあるような描かれ方に固まっていき「人間に関係なく自由に動き回るポケモンの姿」の描写はかなり影を潜めるものとなってしまい、私としてはそれに少なからぬ不満を感じていました。

 

ところが、本作ではメガシンカが登場しないこともあり、「XY」「XY&Z」シリーズで描かれ続けてきた「ポケモンと人間の絆」の表象とは違った観点から「ポケモンと人間の絆」や「ポケモンと人間の在り方」が描かれていきます。

 

嵐という自然の脅威の前では人間もポケモンも等しく無力な存在であること、エンテイがサトシ達の横でか弱いポケモンを保護するために休息をとること、人間に邪魔をされて怒るオニスズメイワークオコリザル等々、「ポケモンにはポケモンの世界の掟があり、それを人間は尊重しなければならない」ということが様々な描写を通して伝わってきます。野生に生きる動物のドキュメンタリーを見ているような、そういう印象をポケモンから感じるのは非常に久しぶりでした。

 

本作で再現される「バイバイバタフリー」のくだりも、サトシと冒険を続けるか、恋人と共にバタフリーの群れで暮らすかをサトシとバタフリーに決断させる重要なイベントです。そこでサトシもバタフリーも別れを決断するところに、ポケモンと人間のつかず離れずないい距離感を感じ、なんというか「以前に何度も見たことがあるのに、かえって新鮮に感じる」という不思議な感覚を覚えました。もちろん同時に泣いていたのは言うまでもありません。

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↑スカーフを持たせて上から複眼「ねむりごな」をキメるのにはまった時期があります。バタフリーきゃわわ。

 

4. 「ずっとポケモンを観続けてきてよかった」と思える

ここまで長々と感想を語ってきましたが、実はまだまだ語りたいことがたくさんあります。

 

 

特に、観ていて「え!?」となった衝撃的なシーンが3つほどあるのですが、これは本作の大きなネタバレとなるため本記事ではあえて触れませんでした。公開がひとまず終了し、また触れる機会があったら言及するかもしれません。

 

 

東京大学ゲーム研究会」の『ポケモン特集号』で現在私が展開している「ポケモン文化論」の一連の議論において、私は今メガシンカを中心に「ポケモンと人間の絆」の表象のされ方に注目しており、次の原稿では間違いなく『キミにきめた!』を分析・解釈・批評していくことになります。執筆や入稿の時期が近づいて来たらまた宣伝しようと思いますのでお待ちください。

 

 

これを執筆したあとに色々と検索をしてみたら、本作はかなり賛否両論があるようです。確かに、カスミもタケシも出てこないところも含めて、本作によって思い出を強引に上書きされたという印象を抱く人もいるかもしれません。しかしながら、私は本作を観て「ずっとポケモンを観続けてきてよかった」と思えましたし、色々と腑に落ちない点もあるものの、純粋に最高のポケモン映画であったと評価しています。私としてはぜひ多くの方に、まだ間に合ううちに観に行ってほしいと思います。

夏休みの宿題とメタフィクションー夏の終わりに『ハートキャッチプリキュア!』第28話。

1. 夏の終わりに

9月に入ると急に寒くなり、たまらず不調になりました。季節の変わり目はいつも苦手です。

 

(大学以外の)大半の学校では夏休みも終わり、すっかり空気感が秋になり今年も夏の終わりを迎えたように感じます。自分は夏の終わりの生まれということもあり、この時期は毎年特別な感慨を抱いてしまいます。そこで、しばらくは夏の終わりの余韻に浸りたい投稿を続けようと思います。

 

今日は夏の終わり(夏休みの終わりごろ)に見たくなる回について話します。

 

以前『文学部唯野教授』についてのレビューで「メタフィクション」について紹介しました。「作品世界が虚構であることをあえて示し、読者が持っている現実と虚構の関係に揺さぶりをかける」というのが私なりのメタフィクションの理解です。

 

字面で説明すると「なにそれ、難しそう……」という感じになりますが、具体的に言うと作中で登場人物が「まあこれアニメだし」て言い出しちゃう手法だったりが、代表的なメタフィクションとなります。他には「作中劇」だったり作者が登場人物として現れるだったり、色々なことが考えられるようです。

 

さて、この手法を説明するのに大変わかりやすいのが『ハートキャッチプリキュア』第28話「サバーク史上最大の作戦!夏休みの宿題おわりません!!」です。

 

この回、『ハトプリ』全編を通しても屈指のクオリティを誇る回であり、腹がよじれるほど笑わせてくれる文句なしの神回なのですが、手法的に非常に興味深く面白いものが見られるので、ぜひ分析していきたいと思います。また、夏の終わりにいつも見たくなる季節感あふれるエピソードでもあります。このブログ初の「文学のプリキュアへの実践」です。

 

2. 『ハートキャッチプリキュア!』について

ハートキャッチプリキュア!』は2010年に放映されたプリキュアで、通算7作目、歴代としては5代目のプリキュアとなります。主人公の花咲つぼみキュアブロッサム)と来海えりか(キュアマリン)の友情を軸に物語が語られます。物語の中盤からは明堂院いつき(キュアサンシャイン)も加わり、中盤にかけてはこの3人組の友情が物語のベースとなっていきます(終盤にかけてはもう一人追加され4人体制になります)。

 

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↑3人体制となったときのハトプリ

 

プリキュアは「戦闘アニメ」でもあるため、プリキュアの敵となる組織や悪役・怪物等がいつも登場するのですが、本作では「地球上の全てを砂漠化させる」という思惑を持つ敵組織「砂漠の使徒」が登場し、人々の心に宿る「こころの花」を利用して怪物を作り出します。

 

「こころの花」は本作の世界観の根底をなす重要設定の1つであり、人々の心の中にある個性の象徴としての役割を果たしています。人はそれぞれ自分だけの「こころの花」を有しており、何か心配事を持っていたり、怒り・悲しみ・不安といったような心を弱らせる原因を持っていたりすると、「こころの花」がしおれたり、元気がなくなったりします。「砂漠の使徒」は弱った人の「こころの花」を利用してそれを具体化し、「デザトリアン」という怪物にすることで破壊活動を行います。「こころの花」を奪われてしまうと、本体である人間は半透明の球体の中に閉じ込められてしまいます。デザトリアンはその人の心の負の部分が具体化した存在なので、普段は誰にも言えない本音を大きな声でわめきながら、自らの「こころの花」を枯らしきるまで破壊活動を行います(絶対デザトリアンにされたくないですね……)。

 

「こころの花」が枯れ切ってしまうともう元には戻れなくなってしまうので、プリキュアたちはデザトリアンと戦い、説得したり励ましたりしてなんとか浄化させることで、「砂漠の使徒」から人々の「こころの花」を守ります。

 

もう1つ、本作における重要な設定として「こころの大樹」があります。これは人々の「こころの花」の源となっているものであり、これが無くなると地球はいっきに砂漠と化してしまいます。「砂漠の使徒」は「こころの大樹」の排除を企み、プリキュアたちは「こころの大樹」の防衛を行います。このあたりの設定は「世界樹信仰」の影響を強く受けていると思います。

↑「こころの大樹」は常にどこかよくわからない空中を浮遊しています。

 

大分長くなりましたが、『ハトプリ』は今後もよく登場することになると思うので、その都度説明を加えていくことにします。今日はその中でも夏の終わりに見たくなる第28話を分析していきます。

 

3. シリーズ屈指のギャグ回……と思わせて

『ハトプリ』第28話「サバーク史上最大の作戦!夏休みの宿題おわりません!!」は8月下旬というまさに夏休みの終わりかけの時期に放送されました。

 

内容についてはタイトルの通り夏休みの宿題をめぐるエピソードで、開始からえりかがかっ飛ばしまくります。

 

勉強が得意で成績も優秀、宿題も順調に片づき、夏休み中でも自己管理がしっかりしているつぼみといつきに対し、「夏休みの宿題なんて最終日に片づければいいよ~~!」と宿題もほとんど手をつけておらず、夏休みの不規則な生活で身も心もだらだらになったえりか、と「夏休みの宿題」というアイテム1つで、つぼみ・いつき←→えりかという対比がばっちりと決まります。

 

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↑「夏休みで身も心もだらだらです~……」なえりか

 

「サバーク史上最大の作戦」とあるように、今回のデザトリアンのターゲットになったのは「夏休みの宿題をやっていない多数の子どもたち」です。夏休みの終わりの時期、宿題をやらなければならないことはわかっているが、どうしてもやりたくない。こうして休み終わりの子どもたちは必ず心を弱らせます。コブラージャはそこにつけ込み、大量のデザトリアンを生成しプリキュアに物量作戦を仕掛けてくるのです。

 

コブラージャは大量のデザトリアンに「宿題が嫌なら学校を壊せば良い」と助言し、小学校の破壊へと向かわせます。(ここでマリンが「あの~~よければ中学校も……」となびきかけるのが最高)

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↑「あの~~よければ中学校も……」に対する強烈なツッコミ

 

 

コブラージャは作戦の思惑についてこう語ります。

「これこそ砂漠化の第一歩。子どもたちの怠け心を煽り、大きくさせ、さらに学校を壊し、学ぶ意欲を取り上げる。やがてやる気や未来への夢も希望も沸いてこなくなる。そうなれば、こころの花は枯れ、こころの大樹も終わり、そして世界は砂漠化するのだ!」

後ほど詳しく論じていきますが、本回は基本的にギャグたっぷりで楽しげなテイストで彩られていますが、ところどころにドキッとするような真剣なメッセージを忍ばせてきます。コブラージャの言うことは一つも間違いがなくて「やはり教育って大事ですよね」ということを改めて思わせてくれます。

 

プリキュアたちは当然学校の破壊を阻止するためにデザトリアンと戦うのですが、しっかりと戦えているブロッサムとサンシャインに対し、生活リズムが乱れ、(昼過ぎに食べた)朝食としてアイスクリームしか食べていない夏バテのマリン、とここでも対比が生きてきます。それだけでなく、マリンのみがコブラージャの言うこと(「嫌なら宿題をやらなければいい」など)にいちいち心を惑わされたり、ブロッサムの「思い出して!勉強って本当はとても楽しいってことを!」という説得を「そうかな…?」と否定したり、マリンがいちいち細やかに視聴者の笑いを誘ってくれます。

 

やがてサンシャインに「マリンはそれでいいの…?苦手なことから目をそらして、言い訳して、全力を出し切れない。それでいいの?」と説得(というかガチ説教)され、さすがのマリンも「気合い入れろあたし~~!」と心機一転本気を出します(ここでちゃんと頑張れるのが、「ただのアホの子」で終わらないえりかのいいところですね)。

 

こうして、プリキュアたちの活躍によりデザトリアンは無事浄化されました。作戦が失敗したコブラージャは、画面に張りつき、こう叫びます。

 

「ちっ!だが、夏休みの宿題がある限り、チャンスはある!

まだ宿題をやっていない子どもたちよ!今度はお前たちのところに行くぞ!

 

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はい、これです。今回のハイライト。まさにこれが「メタフィクション」という手法です。要は遠回しに「宿題しろよ!」という教育的メッセージをメタ的に視聴者に発信しているのですが、この演出は非常に印象的だと思います。

 

ようやくメタフィクションに行き着きました(ここまでで大分長い)。

これが、メタフィクションです。

 

4. 『ハトプリ』はいいぞ。

ストーリーの面白さの基準について、私は「ある程度の段階までは超えるべき基準ラインがあって、そこをクリアしてからは加算方式」という風に捉えています(これは個人の主観です)。

 

そこから、演出の面白さや描き方等が加点方式でどんどん上乗せされていき、それが多いといわゆる「神回」となると考えているのですが、この第28話はシリーズ屈指の神回だと思います。 

 

  • 「夏休みの宿題」というアイテムを用いることで、つぼみといつき、えりかの対比がくっきりと描かれ、それを軸に話全体の筋がぶれることなく一貫している。
  • えりかが最初から最後まで余すところなく生き生きと動いている。
  • つぼみ、いつきが唱える「学校は大切である」「勉強は楽しい」という、一歩間違えれば退屈な説教に陥りかねない教育的内容を、適宜えりかが風刺することで全体のバランスを保っている。
  • メタフィクションの手法を用いて、「夏休みの宿題を早くやれ」という子どもたちには耳が痛いメッセージを嫌味なく発信している。

 

 

『ハトプリ』はすごく好きなプリキュアのシリーズで、今後も語りたいことがたくさんあります。またテーマを定めて分析的なアプローチで紹介していきたいと思います。

 

 

ギャグ回として成立しつつも、色々と興味深い工夫が凝らされているのがこの第28話なのです。 

 

夏の終わりのタイミングに、繰り返し観たくなる印象的なエピソードです。

 

テクストと批評の戦争ー筒井康隆『文学部唯野教授』

1. 文学研究って何なの

昨年の卒論執筆中常に頭を悩まされた問題に「文学研究って何?」というものが挙げられます(今もときどき頭をもたげてきます)。

 

「詩を研究している」という言葉の響きはなんとなくかっこいいが、具体的に何をしているのか説明を求められても困ってしまいます。「詩を研究する」って何なんだろう。

 

ぶっちゃけ今でもこの問いに明確な答えが出せていないのですが、「文学研究の論文」と「読書感想文」の区別をはっきりつけるための一つの方策として「批評理論を用いてテクストを分析する」というものがあります。

 

この「批評理論」は昨年の夏ごろから興味をもち、ジョナサン・カラー『1冊でわかる 文学理論』からスタートし、やがてテリー・イーグルトン『文学とは何か』にたどり着き、廣野由美子『批評理論入門ー『フランケンシュタイン』解剖講義』と大橋洋一編『現代批評理論のすべて』などを経て、なんとなく(本当になんとなくです)概況が掴めてきたような気がします。

 

その上で筒井康隆文学部唯野教授』を最近読んだのですが、もうこれが面白いのなんの。この本も大分前から「いつか読まなきゃリスト」に入っていたものだったのですが、このタイミングで読めたのは色々と見えてきてよかったと思います。

 

ぜひ、文学を志す同志の皆さんには一読をお薦めしたい名著ですので、今日は本作をメインに「批評理論」について少し考えていきたいと思います。

 

2. あらすじと構成

目次を開くと「第一講 印象批評」「第二講 新批評」と講義タイトルがずらずらと並びます。小説の目次というより学術書の目次です。

 

どの章も「唯野教授を巡る大学でのドタバタ奮闘記」と「文芸批評論の講義録」の二部構成からなっています。

 

この小説が最も異様なのは「講義録が本当にそのまま講義録」である点です。第1章にて初めて講義のパートに移った時、恐らく読者の誰もが「え、まじ?」となったと思われます。

 

「ええと、あのう、文芸批評論やるわけですけどね。昔は文芸批評というものはなかったの。なぜなかったかというと、小説がなかったからなの。なぜ小説がなかったかというと、小説書く人がいなかったなの。…」(p.32)

 

講義パートに移ると終始こんな感じです。途中で違う描写が挟まれるなどもなく、唯野教授の文学講義が話し口調で延々と続いていきます。

 

そして、この講義には大量の脚注がつきます。主要な作家や批評家、思想家などが登場するたびに、懇切丁寧な注をつけてくれます。

 

こうして、聴衆を飽きさせない唯野教授の巧みな話術と、情報を補ってくれる丁寧な脚注のおかげもあり、読者は本書を通読することで「印象批評」からスタートして「ポスト構造主義」まで主要な作家・批評家、および批評理論の流れを、とてもわかりやすく概観することができるのです。なんてお得な一冊なのでしょう!

 

ちなみに、前半部分の「大学の裏側ドタバタ模様」は個人的にはあまり楽しめませんでした。誇張がものすごいとはいえ、ちょいちょいリアリティもあるような気がして苦笑いだったり、まあ早い話が筒井康隆のブラックユーモアについていけなかったのです。大学の裏側はあんなんなのかな……。文学部の先生になるとあんな感じになっちゃうのかな……。

 

3. 虚構と現実の転倒

メタフィクション」と呼ばれる手法があります。「作品世界が虚構であることをあえて読者に明らかにし、読者が認識している虚構と現実の関係に揺さぶりをかける」という手法らしいです。

 

(これについては『ハートキャッチプリキュア!』にまさにお手本のような回があるのでまた後に詳しく紹介します)

 

その一例として、唯野教授の講義の中には筆者である筒井康隆も登場します。

「そうそう。いちばんわかりやすいのは筒井康隆の『ポスト構造主義による<一杯のかけそば>分析』というパロディです。これはポスト構造主義の、一見珍妙に見える分析方法のその珍妙なところをクローズ・アップしてパロディにしてるし、分析することのみによって『一杯のかけそば』も痛烈に批評しているというやつでしてね。まあ、パロディというのはこうでなくちゃいけない。」(p.357)

 

ポスト構造主義による<一杯のかけそば>分析』大変気になりますね。

 

それはさておき、小説という虚構内で繰り広げられる唯野教授の講義は、筆者自身をも吸引し講義の一登場人物へと変容させてしまう驚異的なパワーを秘めています。古今東西の文学関係の有名人がひしめきあう講義と注釈は、まるでブラックホールのようです。

 

そして、この本の読者も、講義パートでは「唯野教授の講義を聴く聴衆」へと気づかぬうちに変容してしまいます。つまり、読み手はある種の特権的地位が与えられた「読者」という立場から、「名も顔もない一聴衆」という匿名的な存在へと引きずりこまれてしまうのです。

 

そもそも、批評という行為自体を考えてみると、批評する側と批評される側の間にはぬぐいがたい一方的な権力関係があるように思います。

 

作中でも言及されるロラン・バルトの批評によって、テクストは容赦なくバラバラに切り刻まれ、血みどろの見るに耐えない姿をさらすかのようになります。ここまで来ると批評は凶器であり、テクストは被害者なのです。

 

小説の中で「講義」という形式で批評理論を概説していく本作は、テクストの側からの批評への攻撃という読みが可能だと思います。批評が文学をバラバラに切り刻むのなら、文学が批評の持つ権威を全て粉々に吹っ飛ばせばいい。本作にはそのような反骨精神があふれているように感じます。

 

読者も作品世界の名も無き登場人物へと変容させてしまう事態を「読者の死」とまで言ってしまってよいかは躊躇われるところですが、これは筆者が批評の側に仕掛けた宣戦布告であり、本作で立ち現れてくる事態は「テクストと批評の戦争」と言えるのではないか。私はそのような読みを提示します。

 

さて、この戦争の結果として、読者のみならず筆者も講義のブラックホールに吸い込まれ、そして全部吹っ飛んでいるというものすごいことになっているわけで、いやはや、何ともすごい小説です。

 

4. 終わりに

ところで、ぶっちゃけそんなに批評理論好きじゃないんですよね(身も蓋もない)。

 

「いまだにあまりよくわかっていない」というのがいまいち好きになれない大きな理由だとは思うのですが、理論がどんどん読む人間や書く人間を離れて、文学を抽象的で難解なものになっていっているという印象があり、どうにもお近づきになれません。

 

私は「文学を科学する」ために重要な方法論として批評理論を捉えていますが、「別に理論をやらなくても文学研究はできる」という説もあり、正直、よくわかりません。実際、今までブレイクを研究していて理論を意識したことはあまりありません(色々な方面から怒られそうですが……)。

 

とはいえ、本書はかなり楽しく、わかりやすく読めました。元ネタと言われているイーグルトンの『文学とは何か』と合わせて読むと理解がさらに深まることはうってつけであり、こちらもおすすめです。

 

完全に余談ですが、自分にとってはフッサール現象学ハイデガーの解釈学の講が一番難しく読みにくさを感じました。ソシュール以降の流れは言語学の方でもなじみがあり、高校生の時から内田樹が好きでよく読んでいたからかえってわかりやすく思えたのかもしれません。ドイツの方にも守備範囲を広げていきたい今日この頃です。

"Piping down" してくる詩人― ウィリアム・ブレイク『無垢の歌』より「序の歌」

1. はじめに~ウィリアム・ブレイクについて~

本ブログ初めての研究記事は、やはり私がやっているブレイクについて紹介させていただきます。

 

なお、本記事の画像は全て "The William Blake Archive" から引用しています。

 

William Blake (1757~1827)という芸術家は、「イギリス・ロマン派の先駆けとなった詩人」という位置づけが現在の英文学史ではなされている人物です。

 

この人の最大の特徴は「詩人」であったと同時に「版画家」であったということです。彼の作品の多くが「彩色印刷」という彼独自の技法に則って製作されており、絵と詩が一体となって彼の思想と世界観を表現しています。銅板に絵と文字を彫り込み、それに水彩絵の具を着色して重ね刷りすることで制作されています。

 

 

↑彼の作品はこんな感じに絵と文字のハイブリッドとなっています。

 

今回は卒論でも扱ったブレイクの Songs of Innocence and of Experience (『無垢と経験の歌』)(1794)という作品の中から、 (Innocenceの方の)"Introduction" (「序の歌」)という詩を紹介します。

 

2. 『無垢と経験の歌』

実際に詩の紹介・分析に行く前に、まずは『無垢と経験の歌』という作品について補足しておきます。

 

これはブレイクが1794年に製作したものであり、ブレイクの作品群では「前期」にあたります。そして、ブレイクの作品の中で最もわかりやすくポピュラーなものであり、英語圏での人気が高い作品です。

 

この作品は、『無垢の歌』と『経験の歌』という2つの独立した詩集が合わさって成立したという経緯を持っています。ブレイクは『無垢の歌』を1789年に製作しており、そしてそれを単体で出版していました。そののちに『経験の歌』を1793年に作りますが、これは単体では世に出さず、翌年にすでに出版していた『無垢の歌』と合本にし、『無垢と経験の歌』として発表します。

 

これら2つの詩集には「タイトルが同じで内容が異なる詩」や「対をなしていると考えられる詩」があり、さらにブレイクはこの詩集の表紙に「人間の魂の相異なる2つの状態を示す」という意味深な言葉を載せています。ちなみに、先ほどの画像が「表紙」であり、詩集のタイトルの下に小さく "Shewing the Two Contrary States of the Human Soul" と書かれています。

 

先ほど、わざわざ「Innocenceの方の」と書いたのは、『無垢』と『経験』それぞれに "Introduction" があり、詩集全体には2種類の "Introduction" という詩があるためです。

 

なぜ、ブレイクはわざわざ『無垢』と『経験』という二つの詩集を合本にしたのか。

 

それが私の卒論の大きなテーマとなったのですが、それについてもそのうち紹介できればいいなと思います。

 

3. "Introduction" の分析と解釈

William Blake, "Introduction" from Songs of Innocence (1789)

  1. Piping down the valleys wild
  2. Piping songs of pleasant glee
  3. On a cloud I saw a child.
  4. And he laughing said to me.

 

  1. Pipe a song about a Lamb:
  2. So I piped with merry chair,
  3. Piper pipe that song again―
  4. So I piped, he wept to hear.

 

  1. Drop thy pipe thy happy pipe
  2. Sing thy song of happy chear,
  3. So I sung the same again
  4. While he wept with joy to hear

 

  1. Piper sit thee down and write
  2. In a book that all may read―
  3. So he vanish’d from my sight
  4. And I pluck’d a hollow reed

 

  1. And I made a rural pen,
  2. And I stain’d the water clear,
  3. And I wrote my happy songs,
  4. Every child may joy to hear.

 

ウィリアム・ブレイク『無垢の歌』より「序の歌」

  1. 荒れた野原を下りながら
  2. 楽しい喜びの歌を吹いていると
  3. 雲の上に子供を見た
  4. 彼は笑いながら話しかけてきた

 

  1. ねえ、子羊の歌を吹いて
  2. 私は楽しく笛吹いた
  3. 笛吹きさん、またその歌を吹いて
  4. 私は吹き、彼は聴いて涙した

 

  1. 笛を、幸せの笛を捨てて
  2. 楽しい歌を歌ってよ
  3. だから私はまた同じ歌を歌った
  4. 彼は聴いて喜びで涙を流した

 

  1. 笛吹きさん、座って本に書いて
  2. みんなが読めるように―
  3. そうして彼は視界から消えた
  4. 私はうつろな葦を手に取り

 

  1. ひなびたペンをつくり
  2. きれいな水に色をつけた
  3. そして私は自分の楽しい歌を書いた
  4. 子供みんなが聴いて喜ぶように

 

この詩は、4つの行からなる連が5つの合計20行という構成で、各行の文末は基本的に交互韻(wild  と child, glee と me …)を踏んでいる、というかなりきれいな構成を取っています。

 

私がこの詩を好きな理由として、まずは何といっても「読んでいてリズムがすごく気持ちいい」ということを挙げます。

 

頻繁に登場する "pipe" に代表されるような、 [p], [m], [b] という「唇を閉じて発音する音」(両唇音)が詩全体に散りばめられており、それらが読み上げる上で非常に心地よいリズムを形成しています。

 

詩の内容については「羊飼いが子供との遭遇を経て、詩人になってこの詩集を編んだ経緯」について語られており、全体的に素朴で温かみのあるストーリーとなっています。

 

笛を吹くだけでは「聴いて涙を流した」少年が、先ほどの歌に歌詞を載せたら「聴いて喜びで涙を流した」となっているところに、「歌詞とメロディが一体になった歌の力」というものが端的に表現されており、音楽をやっている身からするとなんだか嬉しくなる詩です。

 

↑2ページ目の挿絵。とりあえず「普通の男の子」ではなさそうなのがわかります。

 

さて、ここまで見てきたように「序の歌」は基本的にハッピーで楽しげな世界観の詩なのですが、実はちょいちょい引っかかりが出てくるところがあります。

 

最も顕著なのは18行目の "I stain'd the clear water" で、"stain" は「しみをつける」「汚す」「傷つける」という意味で、あまりいい言葉ではありません。詩を書くためにペンを着色させて書きつけるのは当然なのですが、「きれいで混じりけのない水を汚す」というイメージはこの詩全体の空気感にはあまりなじんでいないような気がします。

 

そのように見てみると、"pluck" "hollow" など、特に後半にかけての部分から「ネガティブな単語」「いまいち割り切れない単語」が出てくることがわかります。詩人が書く段に至ってから、冒頭から続いていた「平和的で温かみのある世界」にところどころしみができたようになっていくのです。

 

もう一つ、重要な問題として「この詩の主人公であるところの、羊飼いの笛吹きから詩人に転向した彼や、どう見ても普通の子供ではなさそうな男の子は何者なのか」ということが挙げられます。

 

詩の1行目に戻ります。"Piping down the valleys wild" と、羊飼いは笛を吹きながら荒野を下りてきていることが語られます。つまり、彼はどこか高いところから今いる場所である荒野へと下りてきているのです。

 

先ほど、「詩人が書くことによって堕落していく世界」のような読みの方向性を少し匂わせましたが、実は最初からこの世界は「堕落した下界」だったと言えるのです。では、いずれも上からやってきているこの両者は何者なのか。色々なことが言えそうです。

 

『無垢の歌』では以降、「序の歌」で詩人に転向した彼が書いた詩を読むという体裁で作品が続いていきます。これに続く2番目の詩は「羊飼い」で、自身の仕事の喜びについて歌っています。

 

また、「序の歌」で子どもにせがまれた通り「小羊」という詩もあり、これはブレイクの中で最も有名であろう『経験の歌』の「虎」と対照をなす作品となっています(いずれ「小羊」と「虎」をセットで紹介する予定です)。

 

↑『無垢の歌』の表紙。二人の子供たちが母親と思われる女性と共に詩集を読んでいます。

 

4. 終わりに

私がこの詩と初めて出会ったのはもう2年くらい前になりますが、今でもたまに口ずさみたくなるくらいお気に入りの詩です。

 

『無垢と経験の歌』はリズムが心地いい詩が多く、またわかりやすい内容の詩が多いので普段英詩になじみのない方でも気軽に手に取っていただけると思います。

 

そのわかりやすさや親しみやすさの反面、『無垢と経験の歌』も研究しようと思えば無限に問題が沸いてくるのが大変なところです。それでも、やはりブレイクは面白いんですよね。絵も詩も独自の世界観があって、どこまでも引き込まれてしまいます。

 

↑"Introduction" 文字テクストの左右で植物がにょきにょきしているのが好きです。

「研究室」はじめました。

突然ですが、研究室を立ち上げることにしました。

研究対象は「大好きなもの」であれば何でもOKという大変自由な研究室です。

 

初めましての方は初めまして。ますたーと申します。

普段は東京大学大学院総合文化研究科で英詩を中心に英文学の研究をしている大学院生(修士1年)です。

専門はイギリス・ロマン派の詩で、特にウィリアム・ブレイクという人物をよくやっていますが、「守備範囲は広く浅く」をモットーとしています。

 

本ブログが主に研究や議論の対象とするものは次の4つです。

1. 文学(詩をやっているので詩の話が多くなると思います)

2. アニメ(プリキュアポケモンジブリ、ディズニー、その他)

3. ゲーム(ファイナルファンタジーを愛好しています)

4. 音楽(ファゴットとピアノ。オケと吹奏楽を不定期でやっています)

 

やはり文学研究に従事しているので、文学絡みの面白い話を色々と書き連ねていきたいのはもちろんそうなのですが、むしろメインは2になると思います。

 

というのも、2について語る場が今まで皆無だったからです。

 

私は東京大学ゲーム研究会に所属しており、当研究会は夏と冬の年2回、コミックマーケットで会誌を頒布しています。

そこで結構がっつりめなゲーム研究の記事を発表しているため、ゲームについては語る場が今まであったのですが、ゲームと同じくらい好きなアニメについて、真面目に語る場が欲しいとずっと思っていました。そこで、本ブログの立ち上げにこぎつけたわけです。

 

というわけで、ジャンルにこだわることなく、大好きなものを大好きなように語る自由な言語空間をこれから作っていきたいと思いますので、お付き合いいただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願いします。

 

この研究室の実態は、大変マニアックな「プリキュア感想ブログ」になっていくような気がします。