ますたーの研究室

英詩を研究している大学院生が、日常に転がるあらゆる「大好き」な物事を気ままに考察・研究するブログです。

「スイーツを作る」ことの意義―『映画キラキラ☆プリキュアアラモード パリッと!想い出のミルフィーユ!』

1. はじめに~もうだいぶ前に観に行ったわけです~

 

プリアラ』の映画『パリッと!想い出のミルフィーユ!』(以下『パリッと!』)を11月中旬ごろ観に行きました。

 

 

 

今日は、今さらながら『パリッと!』の感想記事をアップしようというわけですが、なぜこんなに遅くなったかというと、11月末にかけて本業の研究やら発表やらが忙しくて全然まとまった時間がとれなかったからです(ようやく「英文学」「ロマン派」「詩」以外のことを考える・書き上げる時間ができてテンションが上がりますね!!)。

 

 

まずは、映画の感想を一言で申し上げると「はじめての劇場でのプリキュア映画観賞が本作でよかった」となります。

 

 

私が本格的にプリキュアを視聴するようになったのは2013年の『ドキドキ!』からですが、実は今回初めて映画館でプリキュア映画を観賞しました。

 

 

噂には聞いていましたが、ちびっ子が「プリキュアがんばれー!」とミラクルライトを振る様子を上から眺めた光景は、真っ暗な夜空に煌めく星のように綺麗で、その高いライブ感も相まって、「プリキュア映画は劇場で見るべきなんだな」ということがわかりました。

 

 

 

さて、以下本作の具体的な感想に入って行くので、ネタバレ注意と申し上げておきましょう。まだ未観賞の方はご注意いただければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. 「クッキング・コメディ」としての『プリアラ

本作で一番笑ったシーンがこれです。

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↑「うまいぞー!!」

 

 

 

申し訳ありません。『プリアラ』と間違えて『ミスター味っ子』を貼ってしまいました。

 

 

 

 

 

キラピカとジャン・ピエールの衝撃的な出会いの場面です。

 

 

「パティシエはいついかなる状況でも調理を続けなければならない」という矜持のもと、キラピカを追いかけてきたカラスや暗闇をもろともせずに、「心の鼻」と「心の目」を使って躍るように調理を続けるジャン・ピエール。

 

 

もうこの描写の段階で相当キテるわけですが、やがて出来上がったミルフィーユを一口食べたキラピカは、その美味しさにたまらず口から大量のキラキラルをドバっと吐き出します。

 

 

ここが本当に面白すぎて耐えられませんでした。一人でマジでゲラゲラ笑いました。

 

 

本作は「クッキング・コメディ」として見ることができると思います。というか、マジで『ミスター味っ子』でしたよね、この辺。

 

 

プリアラ』では当然ながら「スイーツ作り」が物語の根幹をなす重要なコンセプトなわけですが、本作ではその「クッキング」のまた新たな一面が描かれていたと言える気がします。クッキングはまたギャグとも相性がいい。本当にここは爆笑するくらい面白かった。

 

↑修業時代の回想ではキラピカ姉弟とジャン・ピエールの絆も見えてよかった

 

3. 「多様性」の表象 

プリアラ』を語る上で外せないのが「多様性」というキーワードです。

 

いよいよクライマックスを迎えつつあるテレビの本編でも、「多様性」が色濃く表象されるようになってきました。

 

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これは、第38話「ペコリン人間になっちゃったペコ~!」でのカットですが、これは『プリアラ』のメッセージを端的に象徴している非常に重要なシーンだと思います。

 

 

人間と妖精と動物が、「スイーツ」を通じて種族的な垣根を越えて輪を形成する。

 

 

プリアラ』において「スイーツ」は様々な意味を持つ重要なアイテムでありかつ概念となっていますが、ここでは「多様性を言祝ぎつつもみんなを笑顔にするアイテム」としての役割を演じています。

 

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また、似たような作劇を行った2015年の『Go! プリンセスプリキュア』第33話「教えてシャムール♪ 願い叶える幸せレッスン!」と比較して、「動物さんたちが食べても大丈夫な材料でできている優しいスイーツ」というフォローがなされているところが、より好感を持てるようになっていると感じます。

 

 

それに対し、敵がとってくる手段が「不寛容の増大」による「他者の排斥」。

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第35話「でこぼこぴったり!ひまりとあおい!」で登場した人々はすごく感じ悪くて嫌な大人として描かれていましたが、ディアブルは闇を使うことで「普段は抑えていた他者に感じるネガティブな感情をあふれ出させる」という、なんともリアリティがある小癪な手段で「多様性」への攻撃を行います。

 

 

また、最近では「個人の心の闇を増大させる」というまどろっこしい手順をすっ飛ばして「仮面をつけた闇人形へと変容させる」という直接的な手段を用いるようになりました。 人形がコミカルに描かれているとはいえ、結構恐ろしいことだと思います。

 

 

このように、人を単一な存在へと変容させ強制的に支配しようとする「闇」に対し、「光」は個々の多様性を守る形で対抗しようとします。

 

 

「みんなそれぞれ違うのに、それを一つの闇に染めあげるなんておかしいよ!」とこういう論理なわけです。

 

 

これは本当に現在様々な作品で繰り返し表象されるテーマだと思っています。

 

「多様性」は非常に気になっているテーマで、本業の文学研究においても、本格的に問題の中心に据えている概念でもあります。

 

 

さて、本作では「ホイップたちが本来の動物のロールを奪われ、持ち味としていた特技を失ってしまう」という描写がなされました。

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うさぎの機動力、りすの素早さ、らいおんの勇猛さ、ねこの気まぐれさ、いぬの勇敢さが奪われ、ホイップはのろのろ歩くかめに、カスタードはよちよち歩くペンギンに、ジェラートは怠惰ななまけものに、マカロンはぽけっとしているぱんだに、そしてショコラは後ずさりしてしまうザリガニに、変えられてしまったわけです。

 

 

これは映像的にはとても楽しい演出で、子供たちもかなり盛り上がっていた場面なのですが、この描写のすごいところは、「多様性」という『プリアラ』の理念的な問題へと含みを持たせている点です。

 

 

かめホイップはかめの甲羅の防御力を生かし、ぺんぎんカスタードは水中での高い機動力を見せつけ、なまけものジェラートは楽ちんな方法で怠けながら戦い、ざりがにショコラは後ろ向きで「おしりパンチ」を決めることで、このピンチを脱します。

 

 

……ぱんだマカロン?彼女はいつも以上に気まぐれな愛嬌を振りまいていたからそれで良いのではないでしょうか。

 

 

とにもかくにも、これは金子みすゞが言うところの「みんなちがって、みんないい」(「わたしと小鳥と鈴と」)の表象に他ならず、いつもと違う動物に変えられ一時はピンチに陥りつつも「動物のそれぞれの持ち味」を見つけ出し、それを生かすことによって苦境を打開するという描写は、「多様性」の称賛と結びつくと言えるでしょう。

 

 

ここは本当にすごかった。楽しくて愉快なギャグ描写の中に、『プリアラ』が大切にしてきた思想的なメッセージをしっかりと織り交ぜてくる土田監督の手腕に脱帽です。

 

4. 「シエルが肯定する」物語

「多様性」を称揚することは、あらゆることを肯定することにつながります。

 

 

今作はシエルの物語として、師匠であるジャン・ピエールのやり方を否定しない(肯定する)ところが骨子だったと思います。

 

 

第37話でも「なぜシエルがパリではなくいちご坂を選ぶのか?」と「一人で専心し修行に励む方法」と「仲間と助け合いながら日々成長する方法」の対立が描かれましたが、本作でも師匠と弟子の間で「孤高」vs「協調」の対立は先鋭化することになります。

 

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シエルとしては、いちかを始めパティスリーの面々と出会えたからこそ「誰かのために気持ちを込めて作ったスイーツは素晴らしくキラキラルを秘めている」という、今までの自分になかった新たな知見と方法論を得られたわけで、だからこそパリではなく仲間たちと成長できるいちご坂を選んだわけです。

 

 

「究極のスイーツ」に自我を乗っ取られ、世界の全てをスイーツに変えるべく暴走する師匠を止めるために選んだ手段は、「想い出のミルフィーユ」を食べてもらい、今の自分の成長と師匠への思いを伝える、という方法でした。

 

 

シエルはジャン・ピエールに、少々長めの台詞を用いて「仲間を作ることをおすすめするけれども、孤高を貫くあなたのやり方も否定しない」と、ジャン・ピエールを肯定します。

 

 

シエルは「私は私を否定しない」と今までの自己を受け入れることによって、キュアパルフェに変身しました。そして、今度は師匠であるジャン・ピエールを肯定します。

 

 

こうして、自己だけでなく他者も肯定できるようになったシエルの姿はまさに成長です。これがしっかり描かれていたのが、観劇後の深い余韻につながったのではないかと思っています。

 

5. 「スイーツを作る」こと

プリアラ』全体の特徴として私が強調しておきたいのは、『プリアラ』の作品世界においては「悪を退ける方法」は基本的に「スイーツを作る」に一貫していることです。

 

 

ここで、再び第38話のあの場面を想起したいですが、「スイーツ」は「多様性の肯定」に直接的なつながりを持つキーアイテムです。

 

 

第40話、第41話でもパワーアップしたグレイブに対抗するためにとった手段は「スイーツを作りキラキラルを生産する」というものでした。物語世界においては「スイーツを作る」ことが非常に重要な意義を持っていることは言うまでもないことです。

 

 

本作でも、暴走するスイーツオバケを止めるべく、暴走するジャン・ピエールを正気に戻すべく、「想い出のミルフィーユ」を作ることにプリキュアたちは邁進します。ミラクルライトでの応援も「パルフェの変身」と「ミルフィーユの完成」に焦点が当てられます。

 

 

なぜなら、「スイーツ」は「多様性を肯定するアイテム」であるだけではなく、「大好きという思いを伝えることができるメディア」でもあるからです。

 

 

この映画のクライマックスは、敵を力技で倒すのでもなく、止めるのでもなく、「スイーツを作る」ことにあります。

 

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フランス語で「1000枚の葉」(Mille Feuilles)を意味する「ミルフィーユ」は、生地を重ね合わせて作られるスイーツです。このミルフィーユは、シエルがこれまで蓄えてきた、パティスリーの仲間たちへの思い、ピカリオへの思い、師匠への思い、スイーツへの思い、また、いちかたちの思い、そして、ミラクルライトを振るという経験を通して物語世界へと繋がった、私たち視聴者の思い、これらたくさんの人々の思いが積み重なっていることを象徴的に表現している、という解釈も可能でしょう。

 

 

「スイーツを作る」という戦い方は、これまでの『プリキュア』作品にない新たな文法を付け加えてくれたと思います。

 

6. おわりに

さて、ここまでだらだらと『パリっと!』の感想を書いてきましたが、なんとなく散逸的になってしまった気がします。申し訳ありません。

 

とにかく、たくさん笑いが詰まっている中に「心の中にしっかりと残る何か」がある映画であったように思います。

 

最初に述べたことを繰り返しますが、初めてのプリキュア映画の劇場での鑑賞が本作で本当によかったです。

 

 

さて、第4クールに入り最後の個人回を迎え、いよいよ『プリアラ』も佳境です。

 

「多様性の肯定」と「大好きという気持ち」、「人々の心の光と闇」そして「スイーツ」の表象に、最後まで注目して見届けようと思います。

 

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↑キュアキラリンがくっそかわいかった

 

プリキュアは「傲慢な勝者」なのか?―『映画ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー…ですか!?』

1. はじめに~『ハトプリ』の話ばっかりしている

プリアラ』の映画、『パリッと!想い出のミルフィーユ』が絶賛公開中です。

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本当は一刻も早く観賞しに行きたいのですが、土日の空いているタイミングがあまりなく、行きあぐねている状況です。普段映画を観に行くときは、人の少ない平日の昼間などを狙って行くのですが、プリキュア映画はプリキュアを応援する小さいお友達の懸命な姿も合わせて見るべきものだと思うので、休日の昼間に行こうと思います(行ったら何か書きます)。

 

さて、本作『パリッと!』の舞台はフランスの都・パリですが、プリキュアには過去にもパリを舞台にした作品が存在しています。それが、2010年公開の『ハトプリ』の映画『花の都でファッションショー…ですか!?』(以下『花の都』)です。

 

ということで、『プリアラ』映画をより楽しむために、観劇前に比較対象として『花の都』における都市の表象について論じ、「なぜ舞台がパリなのか?」「パリという都市は映画の印象にどのような効果を与えているか?」など、「プリキュア映画におけるパリ」について論じてみようと思っていました。

 

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ところが、予定変更を余儀なくされました。『花の都』を含め、『ハトプリ』全体を結構痛烈に批判している作品批評に出会ってしまったからです。

 

それが、『サブカル・ポップマガジン まぐま―魔法少女アニメ45年史』(STUDIO ZERO/蒼天社、2012年)に掲載されている、足立加勇「私の心の中にいるプリキュアと私の目の前にいるプリキュアと」という論考です。

 

氏は『花の都』の批評を締めくくるにあたり、「伝説の戦士プリキュアは常に傲慢な勝者であり続ける」という言葉を用いています。

 

ですが、私はこの言説に看過できないほどの引っかかりを覚えてしまいました。

 

果たして、そうなのでしょうか。プリキュアは「傲慢な勝者」なのでしょうか。

 

本論では、痛烈に批判されてしまった『花の都』および『ハトプリ』を擁護する議論を展開し、氏が見落としてしまっているだろう映画のポイントを拾い上げながら、私自身の『花の都』批評を展開します。

 

 

(本当は『花の都』における「ルー・ガルー」やデュマ『モンテ・クリスト伯』の援用を踏まえながら「パリ」の話がしたかった)

 

2. 「私の心のなかにいるプリキュアと、私の目の前にいるプリキュアと」

さて、議論を展開するにあたり、まずは足立氏がどのような文脈で『ハトプリ』を批判しているのかをまとめます。

 

そもそも、氏は徹頭徹尾『ハトプリ』に批判的な立場をとっています。

 

・『ハトプリ』の話の言明しがたいわかりにくさ。

 

1. 「悩みの具現化」である怪物をプリキュアが殴って蹴って痛めつけるという行為は、本当に正義の味方がすることなのだろうか。

 

2. 口に出していうことができなかった悩みを、口にすることを可能にしてくれた砂漠の使途の方が、プリキュア達よりもずっと良いことをしているのではないだろうか。

 

・劣等感のプリキュアであるというテーマ設定を理解したが、「劣等感」は大きな要素として物語に作用していたか。
第37話、第38話で描かれた「ハートキャッチミラージュの試練」―かつての劣等感にまみれた自分自身を乗り越え受け入れるという描写は、まるで主人公たちの劣等感がこれまでの話で念入りに描かれていたかのようだったが、果たして本当にそうだったか。

 

・『ハトプリ』では少女が劣等感を乗り越えて変わっていく姿など描かれない。あるのは、そこにいる少女が劣等感を乗り越えて変わるという設定を保有しているという情報だ。視聴者は、テーマの前提を理解した上で『ハトプリ』の物語を自ら構築していかなければならないのである。

 

 

これらを踏まえた上で、『花の都』批評の部分を読み進めていきます。

 

・男爵の孤独とプリキュアの正義

氏はエッセイの最後で、自嘲的に「主人公にではなく、主人公に敗れさる運命を背負わされてしまった者に自分の大切な何かを見出してしまうこと。そして、本気で主人公に対して腹をたててしまうこと」が、「自分と目の前のアニメ作品の間に大きな溝を作る行為であることも事実だった」と認めていますが、そのような傾向のある人が『花の都』を視聴した時に何が起こるかというと、悪役であるサラマンダー男爵に大きく感情移入してしまい、それを打ち破ろうとするプリキュアたちに本気で苛立つことは容易に推測ができますし、尤もなことであるとも思います。

 

事実、本作では悪役のサラマンダー男爵が物凄く光っています。筆舌しがたい悲哀を背負った魅力的な悪役として描かれており、『花の都』を視聴した大人の多くに強い印象を与えたキャラクターだったと言えるでしょう。

 

 

砂漠の王からも見放され、プリキュアにも封印されてしまい、砂漠の使途にも人間にもなりきれなかった男爵。言い換えてみれば、悪役になりきれなかった悪役であり、かといって当然正義のヒーローではなく、正義と悪の二項対立構造の中でその狭間に落っこちてしまった孤独な人物なのです。

 

 

そのような数百年の孤独は、男爵に破滅的な願望を抱かせずにはいられませんでした。「誰も私を愛してくれない世界など、無くなってしまえばいい」と、そういうことです。

 

 

ところが、封印されてから数百年後、封印を解いてくれる存在が現れました。その少年は「両親が欲しい」と大天使ミカエルに祈る孤児であり、孤独な少年と孤独な男爵はまるで親子のように手を取り合い、キュアアンジェによって封印され拡散されてしまった自らの力を再び集める旅へと出かけます。男爵はその力を使って自分を疎外する世界の破壊を目論みますが、男爵によって名前が与えられた少年「ルー・ガルー」は「世界の破壊なんてやめよう」と男爵に対立します。

 

 

これが『花の都』で起こっていることの大まかな流れなのですが、氏は本作を「興味深い内容だった」と評しつつも、「孤独な悪者を相手に友情の素晴らしさを演説するプリキュア」という一方的な対立関係を読み込み、「少年を相手にプリキュア達が順番に自分の劣等感と、それを仲間の助けで克服したという話をする中盤にいらだちを感じずにはいられない(ろくに描かれていない劣等感に、語るに値する実態があるとは到底思えない)」と同時に、「男爵を追いつめた原因は彼を数百年封印したプリキュアにもあるのに、彼女たちは自分たちの正義を疑おうともせずに男爵と敵対することにいらだつ(それはテレビ版で登場人物たちの悩み・苦しみが実体化した怪物を殴り、蹴り飛ばすプリキュアの姿に疑問を感じずにはいられないこととパラレルである)」と批評しています。

 

 

そして、本作は「世界が男に歩み寄るのではなく、男を永遠の敗者としてプリキュアの秩序に組み伏せる結末」であり、「伝説の戦士プリキュアは常に傲慢な勝者であり続ける」と述べています。

 

 

私はこれを、「非常に一面的な『花の都』批評である」と思うので、これから反論を展開していきます。

 

・少年の成長というテーマ

確かに、氏の批評にはうなづけるところも多くあります。特に、数百年の孤独を味わってきた男爵に向かって、たとえプリキュアであると言っても、たかだか十数年しか生きていない中高生の女子が説得や説教を展開する、というのは滑稽だと私も思います。男爵からしたら「いやお前らに簡単にわかってもらってたまるか」という気持ちであることは明白です。

 

しかし、そもそも正義と悪を対立構造と捉えるのと同様に、悪役の男爵 vs 正義のプリキュア という二極構造に本作を捉えてしまう前提そのものに、本作のメッセージを見落としてしまう危険性があると考えます。

 

本作の批評のポイントは「少年をどこに位置づけるか」。これに尽きます。

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男爵と孤独を共にしてきた少年「ルー・ガルー」は、つぼみに出会うことによって「オリヴィエ」という名前を新しく受け取ります。それは、「月の光によって獣に変身する」という自己の特殊能力にまつわる「名称」ではなく、「心の花がオリヴィエ(金木犀)だったから」という自己の内面から名付けられた「名前」です。

 

そもそも、本作の大きなテーマは「少年オリヴィエの成長」にあると思います。「チェンジすること」は『ハトプリ』に一貫して流れる大きなテーマですが、本作においてチェンジ(「成長」と言い換えてもよい)をするのは少年であり、プリキュアたちは少年のチェンジ(「変身」ではない)に手を差し伸べる存在として描かれるのです。

 

事実、ゆりとオリヴィエの場面を見返し、ゆりと男爵の激突を見返すと、ゆりが男爵の何に怒っているかというと、男爵が持つ破壊思想というよりも、「オリヴィエの気持ちを考えたことはあるの?」と少年との関係について議論を戦わせていることがわかります。

 

氏が「いらいらした」と述べた中盤で、えりか、いつき、ゆりは順々に自分のことを語り、少年に新たな気づきを与えます。特に、自己の「男の子らしさ」と「女の子らしさ」の二面性を語ったいつきとのやりとりは非常に印象深く、後に別記事にしたいほど語りたいことがあるのですが、それはともかくとして少年はプリキュアたちとの交流を通じて、自分の気持ちと男爵への思いを静かに省みるようになります。

 

 

そして、「オリヴィエ」という名前を与えてくれ、時にはうざいほどの無償の愛を与えてくれたつぼみは、孤独な境遇を乗り越えて、少年が成長していくためにはかけがえのない存在であったと言えるでしょう。

 

そして、男爵のもとへと戻った少年は、「世界を破壊するのはやめよう」と男爵に面と面を向かって自分の考えを述べるにまで成長します。「孤独な世界ではあったけど嫌なことばかりではなかったし、そして自分の世界にはいつも男爵がいてくれた」「砂漠の使途だって人間と変わらない、同じじゃないか」と本作のメッセージを投げかけます。

 

それを受け止めた上で、男爵は「大きくなったな」と親心のような感慨を抱く一方で、少年の主張を認めることは今までの数百年の孤独を受け止めた自己の在り方を全て否定することになるから、と自己の面子や体裁を守るために、自己の野望を諦めることはなく、少年、およびプリキュアと戦うことを選びます。

 

そして、戦いの末にプリキュアは男爵を浄化し、「世界の破滅」という野望を阻止することに成功するわけですが、ここまでの「少年の成長」というテーマを全てをすっ飛ばして、ここだけを見て「男を永遠の敗者としてプリキュアの秩序に組み伏せる結末」であるとし、「プリキュアは常に傲慢な勝者であり続ける」と結論付けてしまうことは、本作の本質的なものを見落とすことにつながってしまうと思います。

 

言い換えると、本作を分析するにあたって何が最も基調になるかというと、「男爵」と「少年」の疑似親子関係であり、「男爵」と「プリキュア」による悪と正義の対立は、二次的に生じたものに過ぎない、と私はこのように捉えます。

 

 

この物語は「少年がプリキュアとの出会いによって成長し、(疑似的であったとしても)父親を乗り越えていく」話であり、決して「男が永遠の敗者としてプリキュアの秩序に組み伏せられる物語」ではない。

 

 

いや、数百年前、男爵がキュアアンジェによって封印されてしまったときは、そのような物語であったかもしれません。しかし、『花の都』上の現在の時間軸で展開される物語構造は、数百年前のものとは大きく異なります。男爵はもはや孤独な存在ではなく、共に孤独を分け合った息子同然の存在が男爵の世界には存在しています。そして、プリキュアは少年との関係において存在するものになっています。本作においてプリキュアたちが何をしたかというと、確かに少年や男爵とも戦いましたが、一番大きなところは「少年の成長に手を貸した」だけであり、男爵を一番よく考えて止めようとしたのはプリキュアではなく少年なのです。

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本作で第一義的な人間関係は「男爵」と「少年」の親子関係なのであって、「男爵」と「プリキュア」の敵対関係ではない。これが私の『花の都』理解と解釈です。

 

本作を「息子が父親を乗り越えていく物語」と捉えると、氏の言う「プリキュアは傲慢な勝者である」という解釈は無効化されることになります。なぜなら、この解釈においては勝ち負けすらありません。あるのは、少年の成長とその成長を認め喜ぶ男爵の親心、そして二人の孤独が緩んでいったという救いだけだからです。

 

3. 「ポップ・カルチャー批評」の難しさ

ここまで長々と『花の都』をディフェンスする議論を展開しましたが、「ファッションショー要素はもっと必要だっただろう」とか「やっぱり70分じゃ尺が足りなかったなあ」などと、私自身も本作に対して色々と批判的な点に思い至ることはあります。

 

しかし、決してプリキュアは「傲慢な勝者」ではないと強く思いますし、こと近年のプリキュアに関しては、正義と悪の二項対立や、勧善懲悪としてプリキュア作品を捉えること自体無理が生じる解釈だと言うほかありません(ノイズも必要な存在だと受け入れた『スイプリ』、「絶望も失いたくない」と、絶望に夢と同等の価値も認めた『Go!プリ』など)。

 

ところで、なぜここまで氏の解釈と私の解釈に差があるのかを考えたときに、これが「ポップ・カルチャー批評」の難しさなんだろうな、ということに思い至ります。

 

氏も私も、バイアスがかかりまくった上で成立している解釈なのは、恐らく間違いありません。私は誰が何と言おうと『ハトプリ』が「大好き」な作品であることに間違いはなく、氏は『ハトプリ』があまり好きではない作品であることはきっと不変です。

 

そもそも、どの作品を扱うにせよ、プリキュア自体が大きな「お約束」のもとで成り立っている作品なのは、肯定・否定のいずれの立場をとる場合にも認めなければならない「事実」だと思います。

 

 

プリキュアは何があっても最終的には負けることはありません。世界の平和はプリキュアたちの活躍によって保たれます。

 

 

しかし、この枠組みをひとまず置いておいて、「作品自体が何を描こうとしたのか」をゼロベースで分析・解釈していくことは非常に重要なことだと考えています。氏の『花の都』批評は、自己の所与な(『ハトプリ』全体に批判的である)バイアスが強すぎるあまり、そこが足りていないことが最大の問題であると私は思います。

 

 

作品をどのように自分の立場に引き付けるにせよ、その前提には「作品には何が描かれているのかをしっかりと読み取る」ということがあるべきです。

 

 

そこは、私も文学屋さんであることもあり、絶対に譲ることのできない立場です。

 

 

ところが、ポップ・カルチャー分析はそこ(作品のクロース・リーディング)を飛び越えて、作品への好みや印象が先行してしまう、という危険をはらんでいる気がします。だから、難しいし、好みが大きく分かれます。

 

 

もう一度強調しておきますが、プリキュアは「傲慢な勝者」であるとは到底思えないし、プリキュアという物語は、正義の味方として一方的・暴力的に敵をねじ伏せる、すなわち悪と正義のどちらかが勝つのではなく、両方を受け入れた世界を再構成するという手法をとっていると私は考えます。

 

 

さて、かなり長くなったので『花の都』の議論は一度ここで一区切りとしたいと思います。

 

 

『花の都』は「プリキュア映画で最も完成度が高い」とファンの間で言われる作品であり、同時にたくさんの問題提起を生じさせる興味深い作品であることは間違いありません。次回も『花の都』を中心に『ハトプリ』論考を上げていきます。

 

 

<参考文献>

『サブカル・ポップマガジン まぐま―魔法少女アニメ45年史』(STUDIO ZERO/蒼天社、2012年)

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「吹奏楽団やまぶき 気まぐれ演奏会 Vol.1」のお知らせ:Johan de Meij, "Extreme Make-over" (2005)

1. 今週末に本番に出ます

今週末の土曜日(11月4日)に吹奏楽の本番に出ます。

 

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吹奏楽団やまぶき 気まぐれ演奏会 Vol.1」という演奏会です。

 

吹奏楽団やまぶき」は指揮者の山下先生と吹奏楽をやろうという趣旨でできた楽団で、今回が結成初の演奏会となります。知り合いに誘われ、曲目が面白かったので乗りました。

 

ヘビーな曲目に対してあまり練習回数が取れないという社会人団体特有の弱点もありますが、それを補って余りあるほどに個々人のポテンシャルが高い楽団だと思います。きっといい演奏会になると思いますので、もしお時間がありましたらぜひ土曜日の昼下がりは「かつしかシンフォニーヒルズ」にお越しください。

 

2. 「チャイコフスキーの主題による変容」の意味

で、宣伝だけで終わってしまうと味気ないので、今回は当演奏会のほぼメイン曲扱いであるヨハン・デ・メイの『エクストリーム・メイクオーヴァー~チャイコフスキーの主題による変容~』について色々とコメントをします。

 

この曲は16分近くある大曲なのですが、タイトルの「チャイコフスキーの主題」が示す通り、全編を渡ってチャイコフスキーの旋律が大きな構成要素となっています。

 

冒頭はサックス四重奏によって『弦楽四重奏曲第1番』の「第2楽章」(いわゆる「アンダンテ・カンタービレ」)がほぼ原曲通りに奏でられ、展開部では『交響曲第6番』『幻想序曲 ロメオとジュリエット』『交響曲第4番』の旋律を借用しながら盛り上がりを見せ、最後は『祝典序曲 1812』のファンファーレを用いて大々的に締めくくられます。

 

さて、個人的な話になるのですが、この曲は今回やる前から知っていて、チャイコフスキーが好きだったので色々と気になっていました。また、やる前までは「変容」の意味するところは、ここまで挙げてきたようなチャイコフスキーの主題が曲全体に多く盛り込まれていることだと思っていました。

 

ところが、この前の練習のときに、「変容」に込められた別の意味合いに気がつきました。気づいたきっかけは、冒頭の提示から印象的なファンファーレを経て、グロテスクな音の飽和の後にやってくるティンパニソロが、後半部に木低がでろでろやっている音型と同じものを叩いていることを認識したことです。

 

中間部以降、瓶笛が印象的に登場して以来、マリンバを始め様々な楽器によって延々と同じ音列が展開されます。その音列(E♭, G, G,  E♭,  A♭)が、「アンダンテ・カンタービレ」の音の並び(B, D, D, B, E♭)の音階の並びと一緒なことに気がついたのです。

 

ここの展開は明らかに「ミニマル・ミュージック」を意識していると考えられます。

ミニマル・ミュージックについてはそれほど詳しくないのですが、3年前にピクールの『交響曲第0番』をやったときに似たようなものと出会いました)

 

チャイコフスキーが書いたメロディアスな「アンダンテ・カンタービレ」が、パターン化された音型の反復である「ミニマル・ミュージック」へと「変容」している。

 

デ・メイが言う(「変奏」ではなく)「変容」とは、チャイコフスキーの旋律の現代音楽への転用を意味するのではないか、まあそんなことに本番直前になって気づいたわけです。

 

3. 「吹奏楽の面白さ」について

私は「吹奏楽の現代性」が面白くて吹奏楽をやっていた感があります。

 

基本的にはクラシック音楽が好きなのですが、コンテンポラリーな音楽を浴びるために超絶難易度な吹奏楽がやりたくなります。

 

グレード6付近の吹奏楽の大曲・難曲には、吹奏楽、ひいては音楽の限界と新たな可能性を追求しようとしている、意欲的な「問題作」がごろごろ並んでいます。

 

やはり、吹奏楽は面白いです。

 

今回の演奏会のプログラムもあらゆるジャンルを取りそろえており、「吹奏楽の魅力」みたいなものを嫌と言うほどお腹いっぱいに感じ取ることができると思います。

 

ぜひ、多くの方に来てほしいなと思う次第です。

 

わりと本気で、比類なきアニメだと思う。―『ヘボット!』を激推しするヘボ。

1. はじめに

 

ヘボット!』のDVDーBOXを、先ほど予約しました。

 

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↑「やった(ヤッチマッタ)ヘボ。」

 

ヘボット!』ってなんのアニメ?という方が(私のリアル知り合いについては)大半だと思うのですが、プリキュアクラスタおよびニチアサクラスタにとってはおなじみでしょう。日曜の朝7時にやっていたあの「脳が溶けるアニメ」です。

 

まずは、『ヘボット!』そのものの具体的な紹介の前に、今作のDVD-BOXについて説明をしたいと思います。

 

完全予約限定生産の今DVD-BOX、「そもそも予約数が300に達さないと製造しない」というところからスタートしました。

 

300で発売決定。400で収納ボックスとオーディオコメンタリーが追加。500で…、1000で…、というように、予約数が増えていくに従ってどんどん特典内容が豪華になっていきます。

 

そして一番上の3000に達せば「夢の超豪華ハリウッドセレブ仕様」となり、「全話収録のBlu-ray Box」が追加されます。

 

 

 

……え。

 

 

 

「全話収録のBlu-ray Box」が追加特典としてついてきます。

 

 

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↑ほんとその通りだよ……

 

 

「お値段据え置きで「DVD-BOX」の他に「Blu-ray BOX」がついてくる」という頭おかしい仕様が、『ヘボット!』の本質を端的に表していると思うのですが、実は現在(10月13日現在)予約数が3000間近に達しており、締め切りギリギリのタイミングですが、(予約は10月15日まで)もう少しでこの「夢の超豪華ハリウッドセレブ仕様」になりそうなのです。

 

これは、、「予約する」しか、、ないヘボ……。

 

完全に筆者も脳が溶けきってしまったので思わずポチッとしてしまいました。『ヘボット!』恐ろしい……。

 

 

2. 『ヘボット!』を激推しします。

ヘボット!』のことを端的に紹介しましたが、筆者の評価としては『ヘボット!』を表題の通り、「わりと本気で、比類なきアニメだと思う」と激賞しています。

 

実のところ、筆者はプリキュアクラスタであるにも関わらず『ヘボット!』の熱心なリアタイ勢ではなく、まさかの「2017年9月24日放送の最終回のみをリアタイ視聴した」だけでした。

 

さすがに最終回だけ見てもわけがわからなかったのですが、「なんかすごいアニメだ」というのはなんとなく感じたのです。

 

そしてさかのぼって1話から視聴を始め、ここ2週間くらいは死ぬほど『ヘボット!』を見まくっていました。文字通り『ヘボット!』に激ハマりし、沼にずぶずぶと浸かっていったのです。最終的に、先ほどのDVD-BOX予約へと至りました。

 

ついでに言っておくとアニメのBOXを買うのは生まれて初めてです。初めてが『ヘボット!』なのか……。

 

さて、なぜ私がこんなにも『ヘボット!』が好きになったのかを簡単に紹介すると、おそらく「非常にチャレンジングなアニメ作品である」というところにあるのではないかと思います。

 

 

例えばこれは最終回の一幕ですが、『ヘボット!』はもう失うものが何もないからなのか、昨今のアニメ作品に対して非常に好戦的かつ本質的な批判を展開します。

 

ヘボット!』はまさに「見た瞬間に全てが一目瞭然なわかりやすいアニメ作品」の対極にある存在であり、表向きには小学生の男の子をメインターゲットに据えたドタバタギャグアニメの体裁を取っている一方で、一度見ただけでは何を言いたいのかわからない難解な表現方法を多用し、「ループもののSF的世界観」という複雑なプロットを背後に隠し持ちながら、時おりシリアスアニメとしての牙を容赦なく剥き出しにしてきます。

 

幾度となく提示される多数のアニメ・映画作品等のパロディとオマージュ、意味のわからないナンセンスギャグ、朝にふさわしくないえげつない下ネタ、等々が何の脈絡もなく30分間延々と繰り広げられるその独特の作風は、「脳が溶けるアニメ」と呼ぶにふさわしいものとなっています。

 

また、その一方で第1話からしっかりとシリアスなSF的世界観の伏線を張り巡らせており、「ただのナンセンスギャグだと思っていたものが実は重要な伏線だった」という「思いがけない視聴者への裏切り」が『ヘボット!』中毒にさせてきます。

 

 

ヘボット!』がギャグアニメに見えて、実態は巧妙に作り上げられたSF作品であるというは強調しておきたいことです。

 

実のところ、自分も本編を1週しただけなのでよくわかっていないところが多々あります。それも踏まえて『ヘボット!』考察と研究をこれからも続けていきたい所存です。

 

3. 二次創作の推奨

 

また、『ヘボット!』のすごいところは「最終回で公式側が二次創作を推奨した」というところにあります。

 

2017年の10月の番組改編によって「ニチアサタイム」は大きな変化を迎えることとなり、日曜朝7時に続いていた「メ~テレ枠」は40年の幕を下ろすこととなりました。

 

「メ~テレ枠」最後の作品となった『ヘボット!』ですが、40年の歴史の最後を飾るのにふさわしい大作だったと思いますし、最後の最後に「たとえアニメ本編が終わっても、視聴者が思い思いに作品作りをしてくれれば、キャラクターは永遠に生き続ける」という力強いメッセージを残してくれました。

 

前代未聞である公式側の二次創作の推奨について。そもそも『ヘボット!』自体が過去の様々な作品のコラージュの上に、新たな物語世界と表現の可能性を提示しようとした意欲的かつ革新的な作品であったと思います。文学において批評と創作のはざまが曖昧になっていったように、『ヘボット!』においてもオマージュと創作、シリアスとコメディ、意味と無意味、伏線と脱線などの様々な境界線が曖昧となった先に、独特の作品世界とメッセージが出来上がったのだと私は受け取っています。そのような意味において『ヘボット!』は文学的なアプローチを可能とする、研究対象として「興味深い」アニメであり、わりと本気で比類なきアニメだと思うのです。

 

4. おわりに~『ヘボット!』はまたそのうち言及します

本記事では、取り急ぎ「『ヘボット!』のDVD-BOXを予約した」ということと、「現時点で自分の中で言語化できている『ヘボット!』の印象と感想」を紹介しました。

 

非常に熱心な『ヘボット!』考察クラスタによって、『ヘボット!』の作品世界の解明とオマージュ元の推察等の『ヘボット!』研究が進められていますが、正直のところまだ『ヘボット!』の全貌は解明できていないと思います。ですので、(BOXも買ってしまったことだし)私自身も研究対象としてそのうち本格的に扱っていくことにしたいと思います。真面目な話、このアニメは文化研究の恰好の題材でしょう?

 

恐らく、残念ながら日本のアニメの歴史に名を残す「聖典」とはならないマニアックな作品だとは思いますが、すごいアニメであることは間違いないと思いますし、少なくとも私の中の「アニメーション作品の聖典」としてずっと名を残していくことでしょう。

 

ぜひ、見ましょう。そして一緒に脳を溶かしましょう。

↑「ネジ」というモチーフ1つでSF的な世界観をまとめてきたのはマジですごいと思う

 

『キラキラ☆プリキュアアラモード』が描く「多様性」

1. はじめに

キラキラ☆プリキュアアラモード』(『プリアラ』)も折り返し地点を超え、今後もますます面白くなっていく展開から目を離せなくなってきました。

 

さて、プリキュアのメイン視聴者は当然のことながら小さな女の子ですが、いわゆる「大きなお友達」層、そしてその中でも「プリキュア研究」に従事するようなコアなプリキュアファンの間では、最近「多様性」という言葉が注目されています。

 

まずはこちらの記事をご覧ください。

prehyou2015.hatenablog.com

 

プリキュアの数字ブログ」の管理人、kasumiさんはプリキュア研究の偉大な先達と呼ぶべきお方なのですが、氏は「キュアパルフェ」の登場に際して、近年プリキュアが(LGBTの象徴である)「虹」をモチーフに取り入れており、プリキュアが積極的に「多様性」を描こうとしているのではないか、ということを指摘されています。

 

 

プリアラ』のテーマは「多様性」である。

 

私もそう思います。

 

 

今日はプリキュア研究の実践です。『プリアラ』の描く「多様性」について考察します。

 

2. 「虹」というモチーフについて

「虹」について、詳しいことはすべてkasumiさんの記事にまとまっているので、正直ここで付け加えることはほとんどありません。が、これから議論を進めていくにあたって、私自身も「虹」というモチーフについて簡単にまとめておきたいと思います。

 

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まずはレインボーフラッグ。

 

レインボーフラッグはLGBTレズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダー)の尊厳と社会運動を象徴するものであり、性の多様性と多様性を尊重した社会や文化の在り方を表現しているものと言えます。

 

で、『プリアラ』6人目の追加戦士となったキュアパルフェは虹色のプリキュアであり、昨年の『魔法つかいプリキュア』に引き続き、プリキュアは「虹」というモチーフを導入してきました。

 

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虹色のプリキュア、キュアパルフェの変身シーンですが、背景には虹が大きく架かっています。

 

この「虹」というモチーフ、後期ED『シュビドゥビ☆スイーツタイム』の映像にもあちこちに登場しており、何らかの意図を込めて「虹」を積極的に用いているのは間違いないと思います。

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ジェラートとマカロンの背景にしれっと描かれている虹

 

レインボーフラッグに代表される、「多様性」の象徴である「虹」を意識的にモチーフとして使っていることには、「プリアラが多様性を描いていく」というメッセージが暗に示されていると考えます。

 

3. 『プリアラ』での「多様性」と「個性」

「虹」に何か意味がありそう、ということを確認したところで、次は『プリアラ』が描く多様性について指摘していきます。

デザイン

まず、プリキュアのデザインについてです。

本作は追加戦士を含め6名もいる大所帯のチームなのですが、6人のデザインは特徴的なほどに統一感がありません。この「チームとしての統一感のなさ」は、それこそ『シュビドゥビ☆スイーツタイム』の6人横並びの絵を見れば一目瞭然なのですが、これを過去作の大所帯プリキュアとも比較してみます。

 

(2008年『Yes!プリキュア5GoGo!』)

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(2012年『スマイルプリキュア!』)

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(2013年『ドキドキプリキュア!』)

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(2017年『キラキラ☆プリキュアアラモード』)

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↑この絵にもパルフェの後ろに虹がありますね

 

「『プリアラ』のデザインには統一感がない」と言いましたが、これは少し語弊があります。

プリアラ』のデザインには「スイーツ」と「アニマル」という統一的なモチーフがあり、各人がそれぞれのモチーフをあしらった衣装を着ています。なので、全員がまるで共通項がなくバラバラな格好をしている、というわけではありません。

 

しかしながら、比較対象として出した3作品と本作においては、デザインの在り方が根本的に違うような気がします。前者が「それぞれのベースとなる統一的な衣装があり、それのカラー違いを着ている」という印象を与えるのに対し、後者は「スイーツとアニマルという統一的なモチーフはそれぞれにあるものの、色もデザインもバラバラの衣装を着ている」という印象があるように思います(すいません、うまく伝わったか自信がありません)。

 

OPテーマの歌詞

kasumiさんは『魔法つかいプリキュア!』の多様性を論じるにあたって、OPテーマ『Dokkin 魔法つかいプリキュア』の歌詞を分析していますが、私も同様に『プリアラ』のOPテーマ『SHINE!! キラキラ☆プリキュアアラモード』の歌詞を分析することにします。

 

ときめく理由(わけ)は カラフルにみんな(カラフルに♪)

違うけれど、おそろい(おそろい♥)

"大好き" が いちばんのマストアイテム 

 

SHINE!! キラキラ☆プリキュアアラモード

 

この歌の歌詞全体を考えると、『プリアラ』のテーマは「多様性」というよりも「大好き」であろう、ということを考えざるを得なくなるのですが(「大好き」は作中で何度も言及される最重要概念です)、私は「ときめく理由はカラフルに各人違うけれども、大好きという気持ちは共通項として存在する」というメッセージに注目します。

 

「カラフル」という言葉は「虹」のモチーフと共鳴します。

(そういえばレインボーフラッグは6色の虹から構成されますが、プリアラも6人体制、6色によって構成されています)

 

こうして、「虹」「デザイン」「カラフル」といった視覚的モチーフや言葉を並べることによって、「メンバーたちがそれぞれ多様な個性を持っていること」を表現しているのです。

 

第27話からの、それぞれのメンバーがフィーチャーされる「お当番回」を経て、第32話「キラッと輝け6つの個性!キラキラルクリーマー!」では「個性」というキーワードが取り上げられ、続く第33話「スイーツがキケン!?復活、闇のアニマル!」では各々が「スイーツ」について思いを巡らせ、「やはりスイーツはなくてはならない大切で大好きな存在である」という思いのもとに全員がパティスリーに再び集まりました。

 

多様な「個性」を有した仲間たちが、「スイーツ」という大好きな共通項のもとに共同体を営んでいく。

 

プリアラ』はそんな物語だと思います。

 

4. これからの『プリアラ

とはいえ、これからの『プリアラ』の方向性に若干の不安を感じるのも事実です。

 

私が一番懸念に思っていることは、果たしてパティスリーのメンバーたちは、「バイト仲間」から先に進むのか、ということです。

 

というのも。『プリアラ』に好意的、批判的関わらず、プリキュアクラスタからよく上がる『プリアラ』の批判点に、「仲間たちがあまり仲良さそうに見えない」というのがあります。

 

まあ仲悪いわけでは当然ないのですが、パティスリーがなかったら多分友達になってないし、お菓子作り以外に6人でのプライベートの交流はなさそう(あきゆかとかはありますが)。要は、プリアラの関係性は内面の絆に裏打ちされた「友達」ではなく、スイーツを作ってパティスリーを営む「仕事仲間」なのです。

 

これと原因を同じくして、各人の「お当番回」ではスポットが当たっている誰か1人以外のキャラクターは、かなり存在感が薄いというのが良くも悪くも『プリアラ』の特徴となっています。

 

そして、より大きな問題なのが、これから最終決戦へと向かっていくにあたって、「燃え」が足りるかどうか。

 

これはプリキュアが面白かったかどうかの印象を左右する大きな要素なのですが、「バイト仲間」の関係性のままだといまいち「燃え」が足りなくなってしまうような気がするんですよね……。

 

そこで私が読み込んでいきたいのが「家族」という共同体の在り方。

 

私は『プリアラ』の家族描写は素通りすべきではない、という印象をもっています。いちかお当番回の家族エピソードがどれも秀逸な出来だったのを始めとして、お嬢様のあおい、おばあちゃんから「手がかからない子」と言われ続けたゆかり、病弱な妹に献身的な姉のあきら、姉弟のほんのすれ違いが大きな問題になってしまったキラリンとピカリオ等々、『プリアラ』では「家族」の問題がクローズアップされている気がします(ただ、ひまりに至っては「何かありましたっけ」ってくらい家族描写が出ていないですね……)。

 

というか、一般的に想起されるような「家族全員が揃った団欒の場面」というのをいちかの宇佐美家以外に見たことがない。これは、私が『プリアラ』の特徴として特に注目しているところです。それと対をなすかのように、毎回毎回、プリアラのメンバーたちがパティスリーに揃ってお菓子作りに励む様子が描写されます。

 

さらに、最近ではかつての敵であったビブリーもパティスリーの輪の中に入るようになりました。パティスリーの多様性の肯定には、敵も味方も関係ないのです。

 

スイーツという大好きな共通項をもとになんとなく集まっていたパティスリーの仲間たちが、いつの間にか「家族」と呼べるような共同体へと変化していた。

 

もし、こういう力強い絆の表象の展開に持って行けたとしたら、最終決戦に向かって十分な熱量を保持したまま最後まで燃えていけると思います。

 

ただ、この通りに展開が進むと、明確に「家族関係」と紹介されていた前作『魔法つかいプリキュア!』の関係性ともろ被りしてしまうので、このまま「バイト仲間」としての関係性を維持し、「職業としてのプリキュア」という新路線を走り続けてもいいかもしれません。

 

ですが、「多様な個性を有している個人が、大好きなスイーツという共通項のもとに集まり、家族的な共同体をつくっていく」というのは、現代の「多様性」「共同体」の在り方への1つの答えとして、非常に先行きの明るい解答を表象することになると思うので、私は期待したいです。

 

 

 多様な個性を「レッツ・ら・まぜまぜ!」で、どこまで「まぜまぜ」されるのか。

 

 

プリアラ』も残り1クールちょいとなりましたが、10月末公開の劇場版もありますし、まだまだ期待と楽しみを持って視聴していきたいと思います。

「俺たち」のための最高のポケモン映画―『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』

1. 20周年記念作品としての『キミにきめた!』

 

今年も遅ればせながらポケモン映画を劇場で観賞しました。

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作品の感想を一言で言うと、タイトルの通り「『俺たち』のための最高のポケモン映画」でした。基本的に毎年ポケモン映画は劇場に足を運んで観に行っていますが、今年の作品は文句なしにおすすめできます。ぜひ多くの人に観てほしいですし、特に私と同年代くらいで「昔はポケモンをよく見ていたけど、最近はもうあんまり見なくなっちゃったなあ」という方に強くお勧めしたいです。『キミにきめた!』は、まさにそんなあなたのための映画です。

 

 

今日は備忘録も兼ねて『キミにきめた!』の感想を綴っていきます。なるべく作品の核心部分には触れないようにしますが、多少ネタバレしている部分があるので、まだ観に行ってない方はご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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まず最初に指摘しておくべきこととして、本作は例年のポケモン映画の型を大きく外してきているということが挙げられます。

 

例年ですと、ゲストとなる伝説やら幻やらのポケモンが1~2体いて、そのポケモンにまつわる出来事や事件にサトシ達一行が介入し物語が展開されていく、という構成が取られています。この基本的な路線は第一作目である『ミュウツーの逆襲』から昨年の『ボルケニオンと機巧のマギアナ』に至るまで特に大きく変わることはありませんでした。

 

ところが、本作はアニメシリーズの初代第1話を中心に初代シリーズをまるまる再構成するような形式で作劇がなされており、主人公であるサトシに大きくフォーカスが当たっています。本作のテーマは「サトシとピカチュウの絆」であると同時に「サトシの成長」でもあると言えると思います。

 

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↑『Febri』第43号。ご覧の通り『プリアラ』目当てに買いました。

 

2017年9月発売の『Febri』第43号に、藤津亮太氏による「主人公の条件」というコラムが掲載されています。そこでサトシと『キミにきめた!』について言及されており、非常に興味深いので少し紹介してみることにします。

 

アニメが長続きするための方策として「成長しない主人公像」を描くという手法があります。テレビ番組は視聴者の継続的な視聴によって支えられる部分が多く、それに則るためには「いつ見てもおなじみのノリが楽しめる」ことが重要になってきます。そして、それを実現するにあたって「主人公が成長しない」というのが非常に相性がいいのです。

 

本コラムでは『ドラえもん』や『水戸黄門』が例として挙げられていますが、『ポケットモンスター』についても同じことが当てはまります。主人公サトシは我々視聴者に旅立ちを見せてからもう20年が経ちますが永遠に10歳ですし、各シリーズを振り返ってみても、主人公サトシと一緒に冒険するヒロイン主人公の成長が物語の重点になっていると考えられます(ハルカ、ヒカリ、セレナ等々)。

 

特に2013年から16年にかけて放映された「XY」「XY&Z」シリーズのサトシは間違いなく歴代最強で、見た目的にも精神的にもかなり成熟の進んだ大人なサトシが描かれました。ゲッコウガを筆頭とする手持ちポケモンの強さやバトルタクティクスの巧みさも歴代随一で、マジでリーグ優勝を果たし、ポケモンマスターという夢の実現に大きく近づくのではないかと思いながら見ていました(実際のところカロスリーグでは歴代最高となる準優勝という戦績を残しています)。

 

 

そんな「成長しない主人公」サトシですが、本作ではそれまでの「ある種のタブー」を冒し、時間軸を一気に20年前まで戻して旅立ちの部分から新たに描写を積み上げることによって、「ゼロから成長していく主人公像」を惜しみなく描いていきます。本作においては、ポケモンや人との出会いを通じてサトシが明確に成長を遂げていくのです。

 

 

主人公サトシの成長を描く。

 

アニメでは『サン・ムーン』シリーズから構成やテイストを大きく方向転換したということもありますが、最近のポケモンアニメが描いてこなかった、あるいは意図的に避けていたテーマについて、あえてこの20周年という節目の年に真正面から取り組もうとしているという気概を感じました。

 

2. 「俺たち」の20年分の思い出補正

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「俺たち」とめっちゃ雑にくくりましたが、率直な印象として、本作のメインターゲットは今のちびっ子ではなく「当時リアルタイムで初代ポケモンアニメを視聴していた層である、現在20代~30代の若者」に強くフォーカスが当たっていると感じました。

 

本作はアニメ初代1話のオマージュであると同時に、「もしあのときホウオウがサトシににじいろのはねを渡していたら」と分岐したパラレルワールドの話、いわば「if」の物語であると解釈できるのですが、本作では初代シリーズの流れをなぞる形でサトシの冒険が再構成されていきます。

 

ヒトカゲのくだりや「バイバイバタフリー」のくだりはもちろんのこと、本作でのあらゆる描写が、新しく観るはずなのに「どこかで見たことがあるような気がする」という感慨を抱かせるのです。

 

出てくるポケモンのチョイスもまたずるい。もちろん、マーシャドーを始めとして『S・M』以降の新ポケモンも顔を出すのですが、ピカチュウリザードンバタフリーを筆頭として、イワーク、プリン、オコリザルエンテイポッチャマルカリオレントラー等々、なんというか「脳内で勝手に思い出補正がかかる」ような面々ばかりチョイスされているような印象を受けると同時に、観賞中は何度も思い出や懐かしさでいっぱいになったのを強く覚えています。個人的にはラプラスのくだりが一番「うぉぉぉ」となりやばかったです(語彙力)。

 

このように、本作にはずっとポケモンアニメや映画を観続けてきた往年のポケモンファンが喜ぶファンサービスがてんこ盛りです。だからこそ、「俺たち」のための最高のポケモン映画であると言えますし「最近ポケモンはご無沙汰だなあ」という方にこそ観ていただきたいのです。「すべてのポケモンファンに捧げる」という謳い文句に嘘はありません。

 

3. ポケモンと人間の絆

スクリーンに映る物語によって生まれた「思い出」の波に終始溺れかけていた一方で、もう一つ大きく印象に残ったのが「ポケモンがめっちゃ生き生き動いている」ということです。特に「人間とは全く関係のないルールで回っている野生ポケモンの姿」というのをかなり久しぶりに見たような気がします。

 

というのも。ゲームの『X・Y』から「メガシンカ」という要素が導入されて以来、ポケモンシリーズでは「ポケモンと人間の絆」というのが中心的なテーマになっていました。アニメ・映画での「XY」「XY&Z」シリーズでもメガシンカにまつわる描写を通して「ポケモンと人間の絆」が表象され、壮大な物語が展開されました。

 

これはこれで大変良かったのですが、「ポケモンと人間の絆」を描けば描くほど、常にポケモンが人間と共にあるような描かれ方に固まっていき「人間に関係なく自由に動き回るポケモンの姿」の描写はかなり影を潜めるものとなってしまい、私としてはそれに少なからぬ不満を感じていました。

 

ところが、本作ではメガシンカが登場しないこともあり、「XY」「XY&Z」シリーズで描かれ続けてきた「ポケモンと人間の絆」の表象とは違った観点から「ポケモンと人間の絆」や「ポケモンと人間の在り方」が描かれていきます。

 

嵐という自然の脅威の前では人間もポケモンも等しく無力な存在であること、エンテイがサトシ達の横でか弱いポケモンを保護するために休息をとること、人間に邪魔をされて怒るオニスズメイワークオコリザル等々、「ポケモンにはポケモンの世界の掟があり、それを人間は尊重しなければならない」ということが様々な描写を通して伝わってきます。野生に生きる動物のドキュメンタリーを見ているような、そういう印象をポケモンから感じるのは非常に久しぶりでした。

 

本作で再現される「バイバイバタフリー」のくだりも、サトシと冒険を続けるか、恋人と共にバタフリーの群れで暮らすかをサトシとバタフリーに決断させる重要なイベントです。そこでサトシもバタフリーも別れを決断するところに、ポケモンと人間のつかず離れずないい距離感を感じ、なんというか「以前に何度も見たことがあるのに、かえって新鮮に感じる」という不思議な感覚を覚えました。もちろん同時に泣いていたのは言うまでもありません。

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↑スカーフを持たせて上から複眼「ねむりごな」をキメるのにはまった時期があります。バタフリーきゃわわ。

 

4. 「ずっとポケモンを観続けてきてよかった」と思える

ここまで長々と感想を語ってきましたが、実はまだまだ語りたいことがたくさんあります。

 

 

特に、観ていて「え!?」となった衝撃的なシーンが3つほどあるのですが、これは本作の大きなネタバレとなるため本記事ではあえて触れませんでした。公開がひとまず終了し、また触れる機会があったら言及するかもしれません。

 

 

東京大学ゲーム研究会」の『ポケモン特集号』で現在私が展開している「ポケモン文化論」の一連の議論において、私は今メガシンカを中心に「ポケモンと人間の絆」の表象のされ方に注目しており、次の原稿では間違いなく『キミにきめた!』を分析・解釈・批評していくことになります。執筆や入稿の時期が近づいて来たらまた宣伝しようと思いますのでお待ちください。

 

 

これを執筆したあとに色々と検索をしてみたら、本作はかなり賛否両論があるようです。確かに、カスミもタケシも出てこないところも含めて、本作によって思い出を強引に上書きされたという印象を抱く人もいるかもしれません。しかしながら、私は本作を観て「ずっとポケモンを観続けてきてよかった」と思えましたし、色々と腑に落ちない点もあるものの、純粋に最高のポケモン映画であったと評価しています。私としてはぜひ多くの方に、まだ間に合ううちに観に行ってほしいと思います。

夏休みの宿題とメタフィクションー夏の終わりに『ハートキャッチプリキュア!』第28話。

1. 夏の終わりに

9月に入ると急に寒くなり、たまらず不調になりました。季節の変わり目はいつも苦手です。

 

(大学以外の)大半の学校では夏休みも終わり、すっかり空気感が秋になり今年も夏の終わりを迎えたように感じます。自分は夏の終わりの生まれということもあり、この時期は毎年特別な感慨を抱いてしまいます。そこで、しばらくは夏の終わりの余韻に浸りたい投稿を続けようと思います。

 

今日は夏の終わり(夏休みの終わりごろ)に見たくなる回について話します。

 

以前『文学部唯野教授』についてのレビューで「メタフィクション」について紹介しました。「作品世界が虚構であることをあえて示し、読者が持っている現実と虚構の関係に揺さぶりをかける」というのが私なりのメタフィクションの理解です。

 

字面で説明すると「なにそれ、難しそう……」という感じになりますが、具体的に言うと作中で登場人物が「まあこれアニメだし」て言い出しちゃう手法だったりが、代表的なメタフィクションとなります。他には「作中劇」だったり作者が登場人物として現れるだったり、色々なことが考えられるようです。

 

さて、この手法を説明するのに大変わかりやすいのが『ハートキャッチプリキュア』第28話「サバーク史上最大の作戦!夏休みの宿題おわりません!!」です。

 

この回、『ハトプリ』全編を通しても屈指のクオリティを誇る回であり、腹がよじれるほど笑わせてくれる文句なしの神回なのですが、手法的に非常に興味深く面白いものが見られるので、ぜひ分析していきたいと思います。また、夏の終わりにいつも見たくなる季節感あふれるエピソードでもあります。このブログ初の「文学のプリキュアへの実践」です。

 

2. 『ハートキャッチプリキュア!』について

ハートキャッチプリキュア!』は2010年に放映されたプリキュアで、通算7作目、歴代としては5代目のプリキュアとなります。主人公の花咲つぼみキュアブロッサム)と来海えりか(キュアマリン)の友情を軸に物語が語られます。物語の中盤からは明堂院いつき(キュアサンシャイン)も加わり、中盤にかけてはこの3人組の友情が物語のベースとなっていきます(終盤にかけてはもう一人追加され4人体制になります)。

 

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↑3人体制となったときのハトプリ

 

プリキュアは「戦闘アニメ」でもあるため、プリキュアの敵となる組織や悪役・怪物等がいつも登場するのですが、本作では「地球上の全てを砂漠化させる」という思惑を持つ敵組織「砂漠の使徒」が登場し、人々の心に宿る「こころの花」を利用して怪物を作り出します。

 

「こころの花」は本作の世界観の根底をなす重要設定の1つであり、人々の心の中にある個性の象徴としての役割を果たしています。人はそれぞれ自分だけの「こころの花」を有しており、何か心配事を持っていたり、怒り・悲しみ・不安といったような心を弱らせる原因を持っていたりすると、「こころの花」がしおれたり、元気がなくなったりします。「砂漠の使徒」は弱った人の「こころの花」を利用してそれを具体化し、「デザトリアン」という怪物にすることで破壊活動を行います。「こころの花」を奪われてしまうと、本体である人間は半透明の球体の中に閉じ込められてしまいます。デザトリアンはその人の心の負の部分が具体化した存在なので、普段は誰にも言えない本音を大きな声でわめきながら、自らの「こころの花」を枯らしきるまで破壊活動を行います(絶対デザトリアンにされたくないですね……)。

 

「こころの花」が枯れ切ってしまうともう元には戻れなくなってしまうので、プリキュアたちはデザトリアンと戦い、説得したり励ましたりしてなんとか浄化させることで、「砂漠の使徒」から人々の「こころの花」を守ります。

 

もう1つ、本作における重要な設定として「こころの大樹」があります。これは人々の「こころの花」の源となっているものであり、これが無くなると地球はいっきに砂漠と化してしまいます。「砂漠の使徒」は「こころの大樹」の排除を企み、プリキュアたちは「こころの大樹」の防衛を行います。このあたりの設定は「世界樹信仰」の影響を強く受けていると思います。

↑「こころの大樹」は常にどこかよくわからない空中を浮遊しています。

 

大分長くなりましたが、『ハトプリ』は今後もよく登場することになると思うので、その都度説明を加えていくことにします。今日はその中でも夏の終わりに見たくなる第28話を分析していきます。

 

3. シリーズ屈指のギャグ回……と思わせて

『ハトプリ』第28話「サバーク史上最大の作戦!夏休みの宿題おわりません!!」は8月下旬というまさに夏休みの終わりかけの時期に放送されました。

 

内容についてはタイトルの通り夏休みの宿題をめぐるエピソードで、開始からえりかがかっ飛ばしまくります。

 

勉強が得意で成績も優秀、宿題も順調に片づき、夏休み中でも自己管理がしっかりしているつぼみといつきに対し、「夏休みの宿題なんて最終日に片づければいいよ~~!」と宿題もほとんど手をつけておらず、夏休みの不規則な生活で身も心もだらだらになったえりか、と「夏休みの宿題」というアイテム1つで、つぼみ・いつき←→えりかという対比がばっちりと決まります。

 

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↑「夏休みで身も心もだらだらです~……」なえりか

 

「サバーク史上最大の作戦」とあるように、今回のデザトリアンのターゲットになったのは「夏休みの宿題をやっていない多数の子どもたち」です。夏休みの終わりの時期、宿題をやらなければならないことはわかっているが、どうしてもやりたくない。こうして休み終わりの子どもたちは必ず心を弱らせます。コブラージャはそこにつけ込み、大量のデザトリアンを生成しプリキュアに物量作戦を仕掛けてくるのです。

 

コブラージャは大量のデザトリアンに「宿題が嫌なら学校を壊せば良い」と助言し、小学校の破壊へと向かわせます。(ここでマリンが「あの~~よければ中学校も……」となびきかけるのが最高)

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↑「あの~~よければ中学校も……」に対する強烈なツッコミ

 

 

コブラージャは作戦の思惑についてこう語ります。

「これこそ砂漠化の第一歩。子どもたちの怠け心を煽り、大きくさせ、さらに学校を壊し、学ぶ意欲を取り上げる。やがてやる気や未来への夢も希望も沸いてこなくなる。そうなれば、こころの花は枯れ、こころの大樹も終わり、そして世界は砂漠化するのだ!」

後ほど詳しく論じていきますが、本回は基本的にギャグたっぷりで楽しげなテイストで彩られていますが、ところどころにドキッとするような真剣なメッセージを忍ばせてきます。コブラージャの言うことは一つも間違いがなくて「やはり教育って大事ですよね」ということを改めて思わせてくれます。

 

プリキュアたちは当然学校の破壊を阻止するためにデザトリアンと戦うのですが、しっかりと戦えているブロッサムとサンシャインに対し、生活リズムが乱れ、(昼過ぎに食べた)朝食としてアイスクリームしか食べていない夏バテのマリン、とここでも対比が生きてきます。それだけでなく、マリンのみがコブラージャの言うこと(「嫌なら宿題をやらなければいい」など)にいちいち心を惑わされたり、ブロッサムの「思い出して!勉強って本当はとても楽しいってことを!」という説得を「そうかな…?」と否定したり、マリンがいちいち細やかに視聴者の笑いを誘ってくれます。

 

やがてサンシャインに「マリンはそれでいいの…?苦手なことから目をそらして、言い訳して、全力を出し切れない。それでいいの?」と説得(というかガチ説教)され、さすがのマリンも「気合い入れろあたし~~!」と心機一転本気を出します(ここでちゃんと頑張れるのが、「ただのアホの子」で終わらないえりかのいいところですね)。

 

こうして、プリキュアたちの活躍によりデザトリアンは無事浄化されました。作戦が失敗したコブラージャは、画面に張りつき、こう叫びます。

 

「ちっ!だが、夏休みの宿題がある限り、チャンスはある!

まだ宿題をやっていない子どもたちよ!今度はお前たちのところに行くぞ!

 

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はい、これです。今回のハイライト。まさにこれが「メタフィクション」という手法です。要は遠回しに「宿題しろよ!」という教育的メッセージをメタ的に視聴者に発信しているのですが、この演出は非常に印象的だと思います。

 

ようやくメタフィクションに行き着きました(ここまでで大分長い)。

これが、メタフィクションです。

 

4. 『ハトプリ』はいいぞ。

ストーリーの面白さの基準について、私は「ある程度の段階までは超えるべき基準ラインがあって、そこをクリアしてからは加算方式」という風に捉えています(これは個人の主観です)。

 

そこから、演出の面白さや描き方等が加点方式でどんどん上乗せされていき、それが多いといわゆる「神回」となると考えているのですが、この第28話はシリーズ屈指の神回だと思います。 

 

  • 「夏休みの宿題」というアイテムを用いることで、つぼみといつき、えりかの対比がくっきりと描かれ、それを軸に話全体の筋がぶれることなく一貫している。
  • えりかが最初から最後まで余すところなく生き生きと動いている。
  • つぼみ、いつきが唱える「学校は大切である」「勉強は楽しい」という、一歩間違えれば退屈な説教に陥りかねない教育的内容を、適宜えりかが風刺することで全体のバランスを保っている。
  • メタフィクションの手法を用いて、「夏休みの宿題を早くやれ」という子どもたちには耳が痛いメッセージを嫌味なく発信している。

 

 

『ハトプリ』はすごく好きなプリキュアのシリーズで、今後も語りたいことがたくさんあります。またテーマを定めて分析的なアプローチで紹介していきたいと思います。

 

 

ギャグ回として成立しつつも、色々と興味深い工夫が凝らされているのがこの第28話なのです。 

 

夏の終わりのタイミングに、繰り返し観たくなる印象的なエピソードです。