ますたーの研究室

英詩を研究している大学院生が、日常に転がるあらゆる「大好き」な物事を気ままに考察・研究するブログです。

テクストと批評の戦争ー筒井康隆『文学部唯野教授』

1. 文学研究って何なの

昨年の卒論執筆中常に頭を悩まされた問題に「文学研究って何?」というものが挙げられます(今もときどき頭をもたげてきます)。

 

「詩を研究している」という言葉の響きはなんとなくかっこいいが、具体的に何をしているのか説明を求められても困ってしまいます。「詩を研究する」って何なんだろう。

 

ぶっちゃけ今でもこの問いに明確な答えが出せていないのですが、「文学研究の論文」と「読書感想文」の区別をはっきりつけるための一つの方策として「批評理論を用いてテクストを分析する」というものがあります。

 

この「批評理論」は昨年の夏ごろから興味をもち、ジョナサン・カラー『1冊でわかる 文学理論』からスタートし、やがてテリー・イーグルトン『文学とは何か』にたどり着き、廣野由美子『批評理論入門ー『フランケンシュタイン』解剖講義』と大橋洋一編『現代批評理論のすべて』などを経て、なんとなく(本当になんとなくです)概況が掴めてきたような気がします。

 

その上で筒井康隆文学部唯野教授』を最近読んだのですが、もうこれが面白いのなんの。この本も大分前から「いつか読まなきゃリスト」に入っていたものだったのですが、このタイミングで読めたのは色々と見えてきてよかったと思います。

 

ぜひ、文学を志す同志の皆さんには一読をお薦めしたい名著ですので、今日は本作をメインに「批評理論」について少し考えていきたいと思います。

 

2. あらすじと構成

目次を開くと「第一講 印象批評」「第二講 新批評」と講義タイトルがずらずらと並びます。小説の目次というより学術書の目次です。

 

どの章も「唯野教授を巡る大学でのドタバタ奮闘記」と「文芸批評論の講義録」の二部構成からなっています。

 

この小説が最も異様なのは「講義録が本当にそのまま講義録」である点です。第1章にて初めて講義のパートに移った時、恐らく読者の誰もが「え、まじ?」となったと思われます。

 

「ええと、あのう、文芸批評論やるわけですけどね。昔は文芸批評というものはなかったの。なぜなかったかというと、小説がなかったからなの。なぜ小説がなかったかというと、小説書く人がいなかったなの。…」(p.32)

 

講義パートに移ると終始こんな感じです。途中で違う描写が挟まれるなどもなく、唯野教授の文学講義が話し口調で延々と続いていきます。

 

そして、この講義には大量の脚注がつきます。主要な作家や批評家、思想家などが登場するたびに、懇切丁寧な注をつけてくれます。

 

こうして、聴衆を飽きさせない唯野教授の巧みな話術と、情報を補ってくれる丁寧な脚注のおかげもあり、読者は本書を通読することで「印象批評」からスタートして「ポスト構造主義」まで主要な作家・批評家、および批評理論の流れを、とてもわかりやすく概観することができるのです。なんてお得な一冊なのでしょう!

 

ちなみに、前半部分の「大学の裏側ドタバタ模様」は個人的にはあまり楽しめませんでした。誇張がものすごいとはいえ、ちょいちょいリアリティもあるような気がして苦笑いだったり、まあ早い話が筒井康隆のブラックユーモアについていけなかったのです。大学の裏側はあんなんなのかな……。文学部の先生になるとあんな感じになっちゃうのかな……。

 

3. 虚構と現実の転倒

メタフィクション」と呼ばれる手法があります。「作品世界が虚構であることをあえて読者に明らかにし、読者が認識している虚構と現実の関係に揺さぶりをかける」という手法らしいです。

 

(これについては『ハートキャッチプリキュア!』にまさにお手本のような回があるのでまた後に詳しく紹介します)

 

その一例として、唯野教授の講義の中には筆者である筒井康隆も登場します。

「そうそう。いちばんわかりやすいのは筒井康隆の『ポスト構造主義による<一杯のかけそば>分析』というパロディです。これはポスト構造主義の、一見珍妙に見える分析方法のその珍妙なところをクローズ・アップしてパロディにしてるし、分析することのみによって『一杯のかけそば』も痛烈に批評しているというやつでしてね。まあ、パロディというのはこうでなくちゃいけない。」(p.357)

 

ポスト構造主義による<一杯のかけそば>分析』大変気になりますね。

 

それはさておき、小説という虚構内で繰り広げられる唯野教授の講義は、筆者自身をも吸引し講義の一登場人物へと変容させてしまう驚異的なパワーを秘めています。古今東西の文学関係の有名人がひしめきあう講義と注釈は、まるでブラックホールのようです。

 

そして、この本の読者も、講義パートでは「唯野教授の講義を聴く聴衆」へと気づかぬうちに変容してしまいます。つまり、読み手はある種の特権的地位が与えられた「読者」という立場から、「名も顔もない一聴衆」という匿名的な存在へと引きずりこまれてしまうのです。

 

そもそも、批評という行為自体を考えてみると、批評する側と批評される側の間にはぬぐいがたい一方的な権力関係があるように思います。

 

作中でも言及されるロラン・バルトの批評によって、テクストは容赦なくバラバラに切り刻まれ、血みどろの見るに耐えない姿をさらすかのようになります。ここまで来ると批評は凶器であり、テクストは被害者なのです。

 

小説の中で「講義」という形式で批評理論を概説していく本作は、テクストの側からの批評への攻撃という読みが可能だと思います。批評が文学をバラバラに切り刻むのなら、文学が批評の持つ権威を全て粉々に吹っ飛ばせばいい。本作にはそのような反骨精神があふれているように感じます。

 

読者も作品世界の名も無き登場人物へと変容させてしまう事態を「読者の死」とまで言ってしまってよいかは躊躇われるところですが、これは筆者が批評の側に仕掛けた宣戦布告であり、本作で立ち現れてくる事態は「テクストと批評の戦争」と言えるのではないか。私はそのような読みを提示します。

 

さて、この戦争の結果として、読者のみならず筆者も講義のブラックホールに吸い込まれ、そして全部吹っ飛んでいるというものすごいことになっているわけで、いやはや、何ともすごい小説です。

 

4. 終わりに

ところで、ぶっちゃけそんなに批評理論好きじゃないんですよね(身も蓋もない)。

 

「いまだにあまりよくわかっていない」というのがいまいち好きになれない大きな理由だとは思うのですが、理論がどんどん読む人間や書く人間を離れて、文学を抽象的で難解なものになっていっているという印象があり、どうにもお近づきになれません。

 

私は「文学を科学する」ために重要な方法論として批評理論を捉えていますが、「別に理論をやらなくても文学研究はできる」という説もあり、正直、よくわかりません。実際、今までブレイクを研究していて理論を意識したことはあまりありません(色々な方面から怒られそうですが……)。

 

とはいえ、本書はかなり楽しく、わかりやすく読めました。元ネタと言われているイーグルトンの『文学とは何か』と合わせて読むと理解がさらに深まることはうってつけであり、こちらもおすすめです。

 

完全に余談ですが、自分にとってはフッサール現象学ハイデガーの解釈学の講が一番難しく読みにくさを感じました。ソシュール以降の流れは言語学の方でもなじみがあり、高校生の時から内田樹が好きでよく読んでいたからかえってわかりやすく思えたのかもしれません。ドイツの方にも守備範囲を広げていきたい今日この頃です。