ますたーの研究室

英詩を研究している大学院生が、日常に転がるあらゆる「大好き」な物事を気ままに考察・研究するブログです。

プリキュアは「傲慢な勝者」なのか?―『映画ハートキャッチプリキュア! 花の都でファッションショー…ですか!?』

1. はじめに~『ハトプリ』の話ばっかりしている

プリアラ』の映画、『パリッと!想い出のミルフィーユ』が絶賛公開中です。

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本当は一刻も早く観賞しに行きたいのですが、土日の空いているタイミングがあまりなく、行きあぐねている状況です。普段映画を観に行くときは、人の少ない平日の昼間などを狙って行くのですが、プリキュア映画はプリキュアを応援する小さいお友達の懸命な姿も合わせて見るべきものだと思うので、休日の昼間に行こうと思います(行ったら何か書きます)。

 

さて、本作『パリッと!』の舞台はフランスの都・パリですが、プリキュアには過去にもパリを舞台にした作品が存在しています。それが、2010年公開の『ハトプリ』の映画『花の都でファッションショー…ですか!?』(以下『花の都』)です。

 

ということで、『プリアラ』映画をより楽しむために、観劇前に比較対象として『花の都』における都市の表象について論じ、「なぜ舞台がパリなのか?」「パリという都市は映画の印象にどのような効果を与えているか?」など、「プリキュア映画におけるパリ」について論じてみようと思っていました。

 

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ところが、予定変更を余儀なくされました。『花の都』を含め、『ハトプリ』全体を結構痛烈に批判している作品批評に出会ってしまったからです。

 

それが、『サブカル・ポップマガジン まぐま―魔法少女アニメ45年史』(STUDIO ZERO/蒼天社、2012年)に掲載されている、足立加勇「私の心の中にいるプリキュアと私の目の前にいるプリキュアと」という論考です。

 

氏は『花の都』の批評を締めくくるにあたり、「伝説の戦士プリキュアは常に傲慢な勝者であり続ける」という言葉を用いています。

 

ですが、私はこの言説に看過できないほどの引っかかりを覚えてしまいました。

 

果たして、そうなのでしょうか。プリキュアは「傲慢な勝者」なのでしょうか。

 

本論では、痛烈に批判されてしまった『花の都』および『ハトプリ』を擁護する議論を展開し、氏が見落としてしまっているだろう映画のポイントを拾い上げながら、私自身の『花の都』批評を展開します。

 

 

(本当は『花の都』における「ルー・ガルー」やデュマ『モンテ・クリスト伯』の援用を踏まえながら「パリ」の話がしたかった)

 

2. 「私の心のなかにいるプリキュアと、私の目の前にいるプリキュアと」

さて、議論を展開するにあたり、まずは足立氏がどのような文脈で『ハトプリ』を批判しているのかをまとめます。

 

そもそも、氏は徹頭徹尾『ハトプリ』に批判的な立場をとっています。

 

・『ハトプリ』の話の言明しがたいわかりにくさ。

 

1. 「悩みの具現化」である怪物をプリキュアが殴って蹴って痛めつけるという行為は、本当に正義の味方がすることなのだろうか。

 

2. 口に出していうことができなかった悩みを、口にすることを可能にしてくれた砂漠の使途の方が、プリキュア達よりもずっと良いことをしているのではないだろうか。

 

・劣等感のプリキュアであるというテーマ設定を理解したが、「劣等感」は大きな要素として物語に作用していたか。
第37話、第38話で描かれた「ハートキャッチミラージュの試練」―かつての劣等感にまみれた自分自身を乗り越え受け入れるという描写は、まるで主人公たちの劣等感がこれまでの話で念入りに描かれていたかのようだったが、果たして本当にそうだったか。

 

・『ハトプリ』では少女が劣等感を乗り越えて変わっていく姿など描かれない。あるのは、そこにいる少女が劣等感を乗り越えて変わるという設定を保有しているという情報だ。視聴者は、テーマの前提を理解した上で『ハトプリ』の物語を自ら構築していかなければならないのである。

 

 

これらを踏まえた上で、『花の都』批評の部分を読み進めていきます。

 

・男爵の孤独とプリキュアの正義

氏はエッセイの最後で、自嘲的に「主人公にではなく、主人公に敗れさる運命を背負わされてしまった者に自分の大切な何かを見出してしまうこと。そして、本気で主人公に対して腹をたててしまうこと」が、「自分と目の前のアニメ作品の間に大きな溝を作る行為であることも事実だった」と認めていますが、そのような傾向のある人が『花の都』を視聴した時に何が起こるかというと、悪役であるサラマンダー男爵に大きく感情移入してしまい、それを打ち破ろうとするプリキュアたちに本気で苛立つことは容易に推測ができますし、尤もなことであるとも思います。

 

事実、本作では悪役のサラマンダー男爵が物凄く光っています。筆舌しがたい悲哀を背負った魅力的な悪役として描かれており、『花の都』を視聴した大人の多くに強い印象を与えたキャラクターだったと言えるでしょう。

 

 

砂漠の王からも見放され、プリキュアにも封印されてしまい、砂漠の使途にも人間にもなりきれなかった男爵。言い換えてみれば、悪役になりきれなかった悪役であり、かといって当然正義のヒーローではなく、正義と悪の二項対立構造の中でその狭間に落っこちてしまった孤独な人物なのです。

 

 

そのような数百年の孤独は、男爵に破滅的な願望を抱かせずにはいられませんでした。「誰も私を愛してくれない世界など、無くなってしまえばいい」と、そういうことです。

 

 

ところが、封印されてから数百年後、封印を解いてくれる存在が現れました。その少年は「両親が欲しい」と大天使ミカエルに祈る孤児であり、孤独な少年と孤独な男爵はまるで親子のように手を取り合い、キュアアンジェによって封印され拡散されてしまった自らの力を再び集める旅へと出かけます。男爵はその力を使って自分を疎外する世界の破壊を目論みますが、男爵によって名前が与えられた少年「ルー・ガルー」は「世界の破壊なんてやめよう」と男爵に対立します。

 

 

これが『花の都』で起こっていることの大まかな流れなのですが、氏は本作を「興味深い内容だった」と評しつつも、「孤独な悪者を相手に友情の素晴らしさを演説するプリキュア」という一方的な対立関係を読み込み、「少年を相手にプリキュア達が順番に自分の劣等感と、それを仲間の助けで克服したという話をする中盤にいらだちを感じずにはいられない(ろくに描かれていない劣等感に、語るに値する実態があるとは到底思えない)」と同時に、「男爵を追いつめた原因は彼を数百年封印したプリキュアにもあるのに、彼女たちは自分たちの正義を疑おうともせずに男爵と敵対することにいらだつ(それはテレビ版で登場人物たちの悩み・苦しみが実体化した怪物を殴り、蹴り飛ばすプリキュアの姿に疑問を感じずにはいられないこととパラレルである)」と批評しています。

 

 

そして、本作は「世界が男に歩み寄るのではなく、男を永遠の敗者としてプリキュアの秩序に組み伏せる結末」であり、「伝説の戦士プリキュアは常に傲慢な勝者であり続ける」と述べています。

 

 

私はこれを、「非常に一面的な『花の都』批評である」と思うので、これから反論を展開していきます。

 

・少年の成長というテーマ

確かに、氏の批評にはうなづけるところも多くあります。特に、数百年の孤独を味わってきた男爵に向かって、たとえプリキュアであると言っても、たかだか十数年しか生きていない中高生の女子が説得や説教を展開する、というのは滑稽だと私も思います。男爵からしたら「いやお前らに簡単にわかってもらってたまるか」という気持ちであることは明白です。

 

しかし、そもそも正義と悪を対立構造と捉えるのと同様に、悪役の男爵 vs 正義のプリキュア という二極構造に本作を捉えてしまう前提そのものに、本作のメッセージを見落としてしまう危険性があると考えます。

 

本作の批評のポイントは「少年をどこに位置づけるか」。これに尽きます。

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男爵と孤独を共にしてきた少年「ルー・ガルー」は、つぼみに出会うことによって「オリヴィエ」という名前を新しく受け取ります。それは、「月の光によって獣に変身する」という自己の特殊能力にまつわる「名称」ではなく、「心の花がオリヴィエ(金木犀)だったから」という自己の内面から名付けられた「名前」です。

 

そもそも、本作の大きなテーマは「少年オリヴィエの成長」にあると思います。「チェンジすること」は『ハトプリ』に一貫して流れる大きなテーマですが、本作においてチェンジ(「成長」と言い換えてもよい)をするのは少年であり、プリキュアたちは少年のチェンジ(「変身」ではない)に手を差し伸べる存在として描かれるのです。

 

事実、ゆりとオリヴィエの場面を見返し、ゆりと男爵の激突を見返すと、ゆりが男爵の何に怒っているかというと、男爵が持つ破壊思想というよりも、「オリヴィエの気持ちを考えたことはあるの?」と少年との関係について議論を戦わせていることがわかります。

 

氏が「いらいらした」と述べた中盤で、えりか、いつき、ゆりは順々に自分のことを語り、少年に新たな気づきを与えます。特に、自己の「男の子らしさ」と「女の子らしさ」の二面性を語ったいつきとのやりとりは非常に印象深く、後に別記事にしたいほど語りたいことがあるのですが、それはともかくとして少年はプリキュアたちとの交流を通じて、自分の気持ちと男爵への思いを静かに省みるようになります。

 

 

そして、「オリヴィエ」という名前を与えてくれ、時にはうざいほどの無償の愛を与えてくれたつぼみは、孤独な境遇を乗り越えて、少年が成長していくためにはかけがえのない存在であったと言えるでしょう。

 

そして、男爵のもとへと戻った少年は、「世界を破壊するのはやめよう」と男爵に面と面を向かって自分の考えを述べるにまで成長します。「孤独な世界ではあったけど嫌なことばかりではなかったし、そして自分の世界にはいつも男爵がいてくれた」「砂漠の使途だって人間と変わらない、同じじゃないか」と本作のメッセージを投げかけます。

 

それを受け止めた上で、男爵は「大きくなったな」と親心のような感慨を抱く一方で、少年の主張を認めることは今までの数百年の孤独を受け止めた自己の在り方を全て否定することになるから、と自己の面子や体裁を守るために、自己の野望を諦めることはなく、少年、およびプリキュアと戦うことを選びます。

 

そして、戦いの末にプリキュアは男爵を浄化し、「世界の破滅」という野望を阻止することに成功するわけですが、ここまでの「少年の成長」というテーマを全てをすっ飛ばして、ここだけを見て「男を永遠の敗者としてプリキュアの秩序に組み伏せる結末」であるとし、「プリキュアは常に傲慢な勝者であり続ける」と結論付けてしまうことは、本作の本質的なものを見落とすことにつながってしまうと思います。

 

言い換えると、本作を分析するにあたって何が最も基調になるかというと、「男爵」と「少年」の疑似親子関係であり、「男爵」と「プリキュア」による悪と正義の対立は、二次的に生じたものに過ぎない、と私はこのように捉えます。

 

 

この物語は「少年がプリキュアとの出会いによって成長し、(疑似的であったとしても)父親を乗り越えていく」話であり、決して「男が永遠の敗者としてプリキュアの秩序に組み伏せられる物語」ではない。

 

 

いや、数百年前、男爵がキュアアンジェによって封印されてしまったときは、そのような物語であったかもしれません。しかし、『花の都』上の現在の時間軸で展開される物語構造は、数百年前のものとは大きく異なります。男爵はもはや孤独な存在ではなく、共に孤独を分け合った息子同然の存在が男爵の世界には存在しています。そして、プリキュアは少年との関係において存在するものになっています。本作においてプリキュアたちが何をしたかというと、確かに少年や男爵とも戦いましたが、一番大きなところは「少年の成長に手を貸した」だけであり、男爵を一番よく考えて止めようとしたのはプリキュアではなく少年なのです。

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本作で第一義的な人間関係は「男爵」と「少年」の親子関係なのであって、「男爵」と「プリキュア」の敵対関係ではない。これが私の『花の都』理解と解釈です。

 

本作を「息子が父親を乗り越えていく物語」と捉えると、氏の言う「プリキュアは傲慢な勝者である」という解釈は無効化されることになります。なぜなら、この解釈においては勝ち負けすらありません。あるのは、少年の成長とその成長を認め喜ぶ男爵の親心、そして二人の孤独が緩んでいったという救いだけだからです。

 

3. 「ポップ・カルチャー批評」の難しさ

ここまで長々と『花の都』をディフェンスする議論を展開しましたが、「ファッションショー要素はもっと必要だっただろう」とか「やっぱり70分じゃ尺が足りなかったなあ」などと、私自身も本作に対して色々と批判的な点に思い至ることはあります。

 

しかし、決してプリキュアは「傲慢な勝者」ではないと強く思いますし、こと近年のプリキュアに関しては、正義と悪の二項対立や、勧善懲悪としてプリキュア作品を捉えること自体無理が生じる解釈だと言うほかありません(ノイズも必要な存在だと受け入れた『スイプリ』、「絶望も失いたくない」と、絶望に夢と同等の価値も認めた『Go!プリ』など)。

 

ところで、なぜここまで氏の解釈と私の解釈に差があるのかを考えたときに、これが「ポップ・カルチャー批評」の難しさなんだろうな、ということに思い至ります。

 

氏も私も、バイアスがかかりまくった上で成立している解釈なのは、恐らく間違いありません。私は誰が何と言おうと『ハトプリ』が「大好き」な作品であることに間違いはなく、氏は『ハトプリ』があまり好きではない作品であることはきっと不変です。

 

そもそも、どの作品を扱うにせよ、プリキュア自体が大きな「お約束」のもとで成り立っている作品なのは、肯定・否定のいずれの立場をとる場合にも認めなければならない「事実」だと思います。

 

 

プリキュアは何があっても最終的には負けることはありません。世界の平和はプリキュアたちの活躍によって保たれます。

 

 

しかし、この枠組みをひとまず置いておいて、「作品自体が何を描こうとしたのか」をゼロベースで分析・解釈していくことは非常に重要なことだと考えています。氏の『花の都』批評は、自己の所与な(『ハトプリ』全体に批判的である)バイアスが強すぎるあまり、そこが足りていないことが最大の問題であると私は思います。

 

 

作品をどのように自分の立場に引き付けるにせよ、その前提には「作品には何が描かれているのかをしっかりと読み取る」ということがあるべきです。

 

 

そこは、私も文学屋さんであることもあり、絶対に譲ることのできない立場です。

 

 

ところが、ポップ・カルチャー分析はそこ(作品のクロース・リーディング)を飛び越えて、作品への好みや印象が先行してしまう、という危険をはらんでいる気がします。だから、難しいし、好みが大きく分かれます。

 

 

もう一度強調しておきますが、プリキュアは「傲慢な勝者」であるとは到底思えないし、プリキュアという物語は、正義の味方として一方的・暴力的に敵をねじ伏せる、すなわち悪と正義のどちらかが勝つのではなく、両方を受け入れた世界を再構成するという手法をとっていると私は考えます。

 

 

さて、かなり長くなったので『花の都』の議論は一度ここで一区切りとしたいと思います。

 

 

『花の都』は「プリキュア映画で最も完成度が高い」とファンの間で言われる作品であり、同時にたくさんの問題提起を生じさせる興味深い作品であることは間違いありません。次回も『花の都』を中心に『ハトプリ』論考を上げていきます。

 

 

<参考文献>

『サブカル・ポップマガジン まぐま―魔法少女アニメ45年史』(STUDIO ZERO/蒼天社、2012年)

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