ますたーの研究室

英詩を研究している大学院生が、日常に転がるあらゆる「大好き」な物事を気ままに考察・研究するブログです。

「大好き」で世界を変えていけ。―『キラキラ☆プリキュアアラモード』総評

1. はじめに~語りたいので語ります~

先日、『キラキラ☆プリキュアアラモード』の最終回「大好きの先へ!ホイップ・ステップ・ジャーンプ!」が放送されました。

 

f:id:fgmaster:20180129134250j:plain

↑最高の最終回だった(完)

 

プリキュア作品において、一年間意識的にリアタイ視聴を続けて最終回を迎えた作品は『ドキドキ!』『Go!プリ』に続き本作で3作目になるのですが、最後まで観続けてよかったと心から思える最終回でした。

 

 

本作は「語りたくなる面白さ」をたくさん秘めた作品だったように思います。

 

 

というのも、想像の余地がたくさん残されていた作品であるように思えるからです。

 

 

そういうわけで、今日は『プリアラ』総評と題して『プリアラ』を語りたいだけ語っていこうと思います。

 

 

2. 「余白が多い」アニメ

先ほど本作は「余白が多いアニメ」だったと述べました。

 

 

一口に「面白いアニメ」と言っても、「面白さ」には様々な種類があります。

 

 

例えば、観ているときに心の底から「すっごく面白い!」と感じていても、後で「面白い」以外に特に感想が語れない作品もあります(それはそれで佳作であることには変わりないとは思いますが)。

 

 

 

プリアラ』は、このような作品とは対照的に、視聴者に想像の余白が多く残されている「語りたくなる面白さ」に満ち溢れた作品だったと思います。多様な解釈を許しうる「文学的な面白さ」と言ってもいいかもしれません。

 

 

「余白が多い」とは、良く言えば「自由度が高い」悪く言えば「細部が雑である」ということになりますが、これが、良くも悪くも『プリアラ』の特徴であったと私は解釈しています。

 

 

「多様性」を表象した本作は描くべきものが他作と比べてもかなり多く、多種多様なテーマを表現していました。メインを張るプリキュアは6人でしたが、私はキュアペコリンはもちろんのこと、ピカリオもビブリーもプリキュアにカウントしたいので、「本作は総勢9人のプリキュアが登場した」ということになります。他作品と比べても圧倒的に多いですね。

f:id:fgmaster:20180130134919j:plain

※映っていないプリキュアがあと3人います

 

 

そういうわけで、自由度と多様なテーマ性に満ち溢れていた『プリアラ』は周辺的なエピソードにすごく面白い話数がごろごろ転がっていた反面、プリキュア作品として必要不可欠な回である、中盤のパワーアップ回や最終決戦などは、まあ正直言うと面白くありませんでした。それは、『プリアラ』らしい自由度を発揮することがほとんどできず「プリキュア作品のテンプレート」みたいなものに合わせることは本作にそぐわなかったのかだろうな、というように解釈しています。

 

 

 

というわけで、本作は決して「完璧な作品」ではなかったと思います。そのため、視聴者各自が自由に想像して補完してそれぞれの『プリアラ』を作っていけばいいのです。

 

 

いちかならではの独創的で楽しげなデコレーションによって、スイーツがさらにステキなアニマル・スイーツへと変わっていったように。

f:id:fgmaster:20180129141601j:plain

 

3. 「スイーツを作る」ことの意義(再)

私は『パリッと!想い出のミルフィーユ!』の感想記事の中で「スイーツを作る」ことの意義について、「『プリアラ』作品世界においては、悪を退ける方法は基本的に『スイーツを作る』に一貫されている」ということを指摘しました。

 

 

やはり、本作における問題解決の方法は、敵を倒すことでもなく、力技で止めることでもなく、「スイーツを作る」ことなのです。

 

 

この仮説を裏付けるかのごとく、第48話「さいごの戦い!世界まるごとレッツ・ラ・まぜまぜ!」の後半パートでは、無に飲み込まれてしまった世界を取り戻すため「人々の心のキラキラルを残らず集め、それを混ぜ合わせることによって世界を再創造する」というスケールが大きい表象がなされました。

 

f:id:fgmaster:20180129142557j:plain

 

「世界は人々の『大好き』で成り立っている」ということの大胆な表象です。

 

 

 

ラスボスであったエリシオの正体は、ノワールが生み出した「心のない人形」であったわけですが、自我を獲得するに従って人々の心というものをひどく敵視するようになっていきました。心があるから、人々は醜い争いを繰り返す。いつしかそのような思いは人間全体に対する憐憫の情のようなものに変わっていき、エリシオは人々が心を持たず「大好き」も「大嫌い」も存在しない、秩序が保たれた争いなき世界を希求するようになっていきます。

 

 

ここで指摘しておきたいことは、「エリシオはエリシオなりに世界平和を希求していた」と言えるのではないかということです。たとえその方法が根本的に間違っていたとしても、エリシオは人間の争いの醜さを嘆き、なんとかして争いのない平和な世界を実現しようとしていました。その結果が、管理国家よろしくな灰色の世界であったわけですが。

f:id:fgmaster:20180129143722j:plain

 

このように解釈すると、単純にエリシオを悪と断じることはできません。そして、プリキュアの側がまごうことなき正義というわけでもありません。人間の心の光と闇が相対的であったのと同様に、正義や悪という概念も相対的なものであったわけです。

 

 

 

だから、キュアホイップは「殲滅」ではなく「対話」を選びます。

f:id:fgmaster:20180129145632j:plain

f:id:fgmaster:20180129145648j:plain

f:id:fgmaster:20180129144540j:plain

 

「心のない人形」であったはずのエリシオですが、このように人間全体への憐憫の情に似た気持ちを持っていました。 皮肉にも、エリシオは心を憎むことによって、あれほど嫌悪していた心を持っていることを自ら示してしまっていたわけです。そうであったとすれば、もうプリキュアの勝ちはほぼ決まったようなものです。今まで、何度も「大好き」でつながってきたわけですから。

 

 

こうしてプリキュア達は、エリシオの心のキラキラルも含め、全ての人々に宿るキラキラルを混ぜることによって世界の再創造を試みます。「世界まるごとレッツ・ラ・まぜまぜ!」

 

 

こうして世界はピンチから救われたわけですが、浄化されたエリシオは再びプリキュアに語りかけます。「多種多様な人々が心でつながる世界があるとしたら、ぜひ見てみたいものだ。それは、とてもおいしそうな未来だから」と。

f:id:fgmaster:20180129145329j:plain

 

いちかが認めたように、他者とつながることはとても難しいことです。なぜなら、各個人の「大好き」は驚きほど多様で、全く異なっているからです。でも、そうであるからこそ、つながる努力を諦めないことが大事なのだと思います。なぜなら、「大好き」の対象や度合いがバラバラであったとしても、「大好き」の本質は全く同じであると信じているからです。

 

 

プリアラ』が表象したメッセージは、「大好き」を「文化」や「価値観」という言葉に置き換えれば、そのまま現実世界へと当てはめることができるものでした。

 

 

人々は心があるから争いを繰り返すが、心があるからつながることもできる。

 

 

プリアラ』が何度も描いてきた「スイーツを作る」には、そのような意義を読み込むことができるのではないでしょうか。

 

4. 「大好き」は「夢」へと導く

以前『プリアラ』の「多様性」を論じた際に「家族」という概念を提示しました。

 

 

プリアラ』のバイト仲間に留まってしまっているような関係性の薄さを懸念し、「家族」と呼べるような共同体になったとしたら、最終決戦への十分な熱量を保ったまま走りきることができるのではないか。と、そんな趣旨のことを述べました。

 

 

しかしながら、『プリアラ』は最後まで個人の物語でした。どうやら、多様な道を歩む個人個人が、たまたまキラキラパティスリーという中間点で交錯し、互いに影響を与えあいながらそれぞれの「大好き」を深めることで、自分だけの道を見つけていく物語であったようです。

 

 

 

この観点に立脚した各個人の歩みの過程については、疲ぃさんのブログ『おもったことをつらつらと』に詳細にまとめられています。特に、「スイーツさんたちのあしあと」では「プリアラを料理アニメとしてみたときの特異性」について大変興味深い考察を展開されています。

omottsura.blog.fc2.com

↑自分の『プリアラ』考察も氏の影響を大きく受けた上で展開されています。

 

 

本ブログでは、主人公である宇佐美いちかについて議論を展開しようと思います。

 

 

(というのも。何だかいちか大好きなんですよ。すごく魅力的な主人公であったと思います。「家族」にフィーチャーしたいちかお当番回は全て珠玉の出来でしたし)

 

 

最終回で描かれたのは、いちかの夢でした。

 

多様な「大好き」を描いた本作においても、いちかの「大好き」にかける気持ちは頭一つ抜き出ていました。いちかの「大好き」な想いはやがて「たくさんの人々に気持ちを届けたい」「世界中の人々をスイーツで笑顔にしたい」と、際限なく大きく膨らんでいきます。

 

 

そして、そんないちかの新たに大きくなった「大好き」はまた別の「大好き」と衝突してしまいます。夢を追いかけたら、いちご坂を離れてしまうことになる。ペコリンたちともお別れをしなければならなくなる。いちかにとっては、このままいちご坂でキラパティを続けるのも「大好き」だから、どちらかを選ぶことなんてできません。

 

 

そんないちかを後押ししたひまりの台詞が印象的でした。

 

 

「いちかちゃんの大すきをあきらめたら、絶交です」

f:id:fgmaster:20180130111440j:plain

 

f:id:fgmaster:20180130110638j:plain

第2話の、ひまり変身直前の場面を想起しましょう。

 

 

初めてできた大切な友達に対して、あえて「絶交」という強い言葉を使って、迷う背中を後押しする。そこにはひまりの本心やいちかへの思いと共に、ひまりの成長も込められていたような感じを受け、とても強く響く印象的な言葉になっていました。

 

 

 

さて、最終回ではキュアペコリンを筆頭に、いちご坂の妖精たちが力を合わせて戦う場面が描かれます。プリキュアはいちかたちだけではありません。スイーツを愛し、スイーツに込められた「大好き」を感じ、キラキラルを大切にできるならば、人間であろうと妖精であろうと、種別も男女差も関係なく、みなプリキュアなのです。

 

だから、いちかが夢を追いかけるためにいちご坂を離れることになっても大丈夫。疲ぃさんが語るように「『プリアラ』の戦いは大いなる物量戦」です。一人一人の力は弱小であっても、それをつなげることによって大いなる力を発揮します。いちかたちプリキュアがいなくても、いちご坂にはペコリンをはじめとして頼もしい仲間たちがたくさんいます。

 

f:id:fgmaster:20180130111845j:plain

本作全体を通して一番成長を遂げたのは、もしかしたらペコリンかもしれません。

(一時期ペコリンマジ空気とか言っちゃってごめんね)

 

f:id:fgmaster:20180130112317j:plain

こうしていちかは、エリシオとの約束「人々が心でつながりあう世界の実現」のために、大いなる一歩を踏み出しました。世界中を飛び回って人々を救っている「憧れのヒーロー」たるお母さんのように、いちかも「スイーツで世界中の人々を笑顔にする」旅へと出発したのでした。

 

 

『まほプリ』の最終回でみらいたちと出会ったのも、その旅の途中の一幕だったのでしょう(この1年越しの演出が天才過ぎて震えあがりました)。

f:id:fgmaster:20180130112643j:plain

 

そして舞台は数年後に。数年後の後日談は『Go!プリ』で証明された神演出ですが、『プリアラ』ではさらにパワーアップして、みなそれぞれの未来の姿が描かれます。

 

 

ルミエルとノワールの生まれ変わりのような男の子と女の子に、「スイーツを届ける」ことによって 「大好き」をつなげる、未来のいちかの姿。印象的な一場面をもって、本作は幕を閉じます。

f:id:fgmaster:20180130113047j:plain

f:id:fgmaster:20180130113057j:plain

 

5. 「心」と「技術」の弁証法の先に

本作はいちか・シエルのダブル主人公だったと捉えています(なんて乱暴な捉え方)。

 

『パリッと!』はシエルの物語でした。シエルが自らの歩みと現在の自分の在り方、そして師匠の方法論をも肯定する物語でした。

 

 

誰よりも「大好き」の力と大切さを知っていて、比類なき独創的なデコレーションのアイデアとセンスをもついちかと、誰よりもスイーツに熱意と努力を傾けて、孤高に技術を磨き上げた一流パティシエのシエル。

 

 

プリアラ』の中盤では、「心」のいちかと「技術」のシエルの対比が物語の主軸をなしていました。

 

f:id:fgmaster:20180130114247j:plain

第20話のくまパンケーキ、全編通してなぜかすごく印象に残っているんですよね。

 

 

何の変哲もないパンケーキなのに、キラキラルがものすごく溢れている。それは、いちかが男の子のために一生懸命気持ちを込めて作ったからなのですが、シエルはこれをきっかけに、いちかのことを見直すようになり、さらに興味を持つようになります。

 

 

スイーツを作ることは「心」だけではできません。ひまりが「スイーツは科学です!」といつも語るように、失敗せずに作るためには踏まえるべき科学的知識と理屈があり、茶道のようにきちんと守るべき型があり、シエルのようなたゆまぬ努力と反復練習を積み重ねた先にある技術が不可欠です。

 

 

でも、それでも、やはり「心」がなければ上手くいきません。理屈、型、技術のしっかりした土台の上に「心」が乗っかることによって、初めて人を感動させられるスイーツが完成するのです。ゆかりも同じことを言ってました。おもてなしは、確かな型の上に心が乗ることによって初めて可能になる、と。

 

 

「心」と「技術」の対比は、ゆかりとシエルの関係性の中でも描かれていました。ゆかりの物語にとって、マカロンは最初から最後まで非常に象徴的な役割を果たしていました。第5話で、なんでも完璧にこなせていたゆかりが、初めてうまくいかなかったマカロン作り。第29話で、自分の好きな茶道と混ぜ合わせることによって、美味しく作ることができた抹茶マカロン。第45話で、シエルの指導の甲斐もあって、ついに完成した完璧なマカロン。ゆかりの成長は、常にマカロンと共にありました。

f:id:fgmaster:20180130115532p:plain

 

「大好き」をテーマにする『プリアラ』であっても、「心」一辺倒にならずに「技術」の方面も描いてくれたことは、大変よかったと思います。

 

 

芸術を意味する "Art" という言葉は「技術」という意味も持ち合わせています。人々の心に訴えかけるには伝えたいという「気持ち」だけではなく、たゆまぬ努力によって身につけられた「技術」も不可欠だと、私は確信しています。

 

 

それでも、やはり原動力は「大好き」なのでしょうけどね。「女の子は大好きから気持ちが始まる」「想いは女の子の輝く力になる」という言葉その通りに。

 

6. 終わりに~「大好き」で世界を変えていけ。

まだまだ書きたいことがある気がしますが、先ほどの段で結論らしきものに到達できた気がするのでここでまとめに入りたいと思います。

 

 

本作、肉弾戦封印を提示しちゃっただけに「プリキュア」として評価するとかなりポイントが下がってしまう作品であったことは否めません。やっぱりプリキュアに肉弾戦は要るんですね。最終回においてキュアエールがパンチ・キックで長老をあっさり倒しちゃうところは思わず笑いました。これじゃあまるで肉弾戦は文明の利器じゃないか。

 

 

ところが、既存のプリキュアらしさから大きく外れていった作品であると解釈した上で、『プリアラ』の面白かったところを探してみると、それはそれは多くのものが転がっていました。とにかく「周辺」が面白い作品だった。面白い「周辺」が多く集積することによって、本筋が形作られていった作品であったように思います。

f:id:fgmaster:20180130121722j:plain

以前にも載せましたが、第38話「ペコリン人間になっちゃったペコ~!」での一場面を『プリアラ』を象徴する場面として紹介します。人間・動物・妖精の区別なく、みながスイーツを楽しむ。スイーツは人々を笑顔にするアイテムであると同時に、心を伝えるためのメディアでもあります。また、キラキラルを介して人々の心の象徴であるとさえ言えるものでしょう。

 

 

本作におけるプリキュアの位置付けは、「スイーツに込められたキラキラルの力を使うことができる伝説のパティシエ」というものでした。人々の笑顔を守り、当たり前の日常を悪から守る戦士としてのプリキュア像ではなく、本作においては、人々を笑顔にする、多様な人々の「大好き」をつないでいくパティシエとしてのプリキュア像を描いていました。

 

 

ときめく理由(わけ)は カラフルにみんな(カラフルに♪)

違うけれど、おそろい(おそろい♥)

"大好き" が いちばんのマストアイテム 

 

SHINE!! キラキラ☆プリキュアアラモード

 

 

この世界には「大好き」がたくさん溢れています。そして、いちかたちのように、自らの「大好き」が自分を、世界を、変えていくことができる。

 

 

 

「『大好き』で世界を変えていけ」というメッセージを発してくれた『プリアラ』に、大きな称賛と共に心からの感謝を送りたいと思います。