ますたーの研究室

英詩を研究している大学院生が、日常に転がるあらゆる「大好き」な物事を気ままに考察・研究するブログです。

少女は、見られる―『カードキャプターさくら』批評は『プラチナ』から始めるべき

1. はじめに~2018年は『カードキャプターさくら』から始まる

 

明けましておめでとうございます(もう1月も下旬ですが……)。

 

 

昨年に開設したこの「ますたーの研究室」ですが、おかげさまで様々な人にごらんいただき、たいへん恐縮な思いでいっぱいです。いつもありがとうございます。

 

 

本年も出来る限り更新ペースを上げつつ色々なことを書いていきたいと思いますので、ぜひお付き合いいただけましたら幸いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

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ということで、新年1発目の記事は『カードキャプターさくら』です。

 

 

2018年『カードキャプターさくら』のおよそ20年ぶりとなる新作「クリアカード編」の放送が開始されました。

 

 

カードキャプターさくら』は1998年~1999年にNHKで放送されたアニメですが、当時の私は幼稚園の年長でした。視聴したのは小学生低学年の頃だと思うので、おそらく再放送だったと思われるのですが、幼少期の筆者に多大な影響を与えたアニメでした。現在の私の「女児向けアニメ」好きの原点が『カードキャプターさくら』なのは間違いありません。

 

 

ところで、「男の子なのに、そんな女の子向けのアニメを観るんじゃない!」という類いのことを、今まで一度も家族から言われたことがありません。『カードキャプターさくら』や『夢のクレヨン王国』を母親と一緒に視聴していた記憶さえあります。

 

 

私はこのことにすごく感謝していて、「ジェンダー規定を押し付けられた」という思いを身近な人から一度もされずに今まで生きてこられたということは、自己意識の形成に大きなプラスとなった気がします(アニメとジェンダーの話は、また別の機会で議論していきたいと思います)。

 

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さて、少し脱線しましたが、本論では「少女の表象」をテーマに『カードキャプターさくら』の批評をしていきたいと思います。

 

 

テーマは「少女は、見られる」です。

 

 

2. 『プラチナ』の少女はこちらを見ない

まずは、こちらをごらんください。

www.youtube.com

 

カードキャプターさくら』第3期(「さくらカード編」)OP曲の『プラチナ』です。

 

『プラチナ』は歌としてもOP映像としても非の打ちどころのない素晴らしい作品ですよね。 

 

 

タイトルにもしましたが、『カードキャプターさくら』の批評はこの『プラチナ』の分析・解釈から始めるべきだと考えています。なぜなら「少女の表象」という問題がこのOP映像に全て詰まっているからです。

 

ここで紹介したいのが、本ブログにおける一連の「魔法少女アニメ」分析のバックボーンとなっている須川亜紀子著『少女と魔法―ガールヒーローはいかに受容されたのか』(NTT出版、2013年)です。

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本書は「魔法少女アニメ」を主に受容の面から学術的に考察した研究書であり、作品分析とオーディエンス調査の両面から「魔法少女アニメ」に迫っているのが特徴です。特にジェンダー論の視点からのアニメ批評の視座には大変感銘を受けました。

 

 

筆者は本書の中で「少女」を「社会状況に応じて多様な表象がなされる」存在である一方、村瀬ひろみらの先行研究を踏まえながら「第三者(主に男性)に構築される客体」であるとしています。

 

このことを噛み砕いて説明しましょう。周囲から「少女」と目される女の子は自分自身のことを「少女」とは呼びません。「少女」とは常に誰かから呼ばれる・語られる・見られる存在であり、そこには「少女」と呼ぶ主体 vs. 「少女」と呼ばれる客体の間に、常に何らかの一方的な権力関係が存在する、と言えます。

 

そして、第三者は「少女」に「一回性で取り返せない思春期の女性の多様なイメージ」を投影し、「少女」には「無垢」「ナイーブ」「処女性」「夢想性」などの形容がなされるわけです。

 

さて、『少女と魔法』ではこの「少女」という概念の定義の後に、「少女」側からの反撃=「カワイイ」という絶対的価値基準の創出と、「カワイイ」を共有することで同質的な集団が形成されることを紹介し、「魔法少女アニメは『少女』が表象される場であると同時に、『カワイイ』という価値基準で紐帯がなされた女の子たちに対する、規範のジェンダー規範を揺るがす場としても形成されてきた」と「魔法少女アニメ」を定義づけます。

 

 

本論ではその一歩前に立ち返り、『カードキャプターさくら』の分析を通して「少女とは見られる存在である」という主張を確認していきます。

 

 

さて、話を『プラチナ』に戻します。

 

数年前、友人と『プラチナ』の話になった際に、その友人が「さくらちゃんが一切笑顔を見せない」ということを指摘しました。

 

それに追加して、私は最近「さくらちゃんがこちら側(視聴者側)に殆ど視線を向けない」ということに気付きました。

 

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↑全体を通して視線が空ろなさくらちゃん

 

『プラチナ』におけるさくらちゃんは、明らかに本編で描写される普段のさくらちゃん像と一線を画しています。「笑顔がない」のみならず、「物憂げ」「不安げ」「空っぽ」な表情を浮かべ、視線の焦点が空ろなさくらちゃんは、一般的な「少女」イメージに仮託するような「不確かさ」や「儚さ」を表象しているように思います。

 

I'm a dreamer ひそむパワー

 

私の世界

夢と恋と不安で出来てる

でも想像もしないもの 隠れてるはず

 

『プラチナ』の歌詞においても、「儚さ」や「無垢さ」の「少女性」が描かれています。「夢見る少女」の世界にはまだまだ未知なものがあふれていること、そしてその未知に対して不安と期待がない交ぜになった感情が表現されています。 

 

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また、これらの不安げな表情とは対照的に、「安心したような表情」を見せるシーンも印象的なものとして生きてきます。両手でそっとさくらの花びらを受け止めるこのシーンでは、さくらの花びらはさくらちゃんの「思い」の比喩として描かれているのではないでしょうか。

 

みつけたいなあ かなえたいなあ

信じるそれだけで 越えられないものはない

歌うように 奇蹟のように

「思い」が全てを変えていくよ

きっと きっと 驚くくらい

 

『プラチナ』岩里祐穂作詩

引用元:「歌詞タイム」(http://www.kasi-time.com/item-294.html

 

 

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「少女」は大切に抱えたさくらの花びらを空へと放し、またその視線はぼんやりと上の方へと向かいます。

 

「思い」が世界を変革すること。「少女」がやがて成長し「少女」でなくなること。

 

このシーンはそのことを絵解きしているのではないかと解釈します。

 

 

このようにして、『プラチナ』には「少女性」がぎゅっと詰まっています。

 

そして、その表象される「少女性」というのは視聴側が一方的に「少女」に投影する「少女イメージ」であり、この映像においては「少女」は一方的に「見られる存在」としての役割を果たしています。ここに、「見る」と「見られる」の一方的な権力関係を読み込むことは妥当と言えるでしょう。

 

3. 「見られる少女」を「見る少女」がいる

なぜ筆者がここまで「見る」と「見られる」に執着するのかというと、この『プラチナ』で描かれている「見る者」と「見られる者」という非対称的・一方的な権力関係しかり、「少女性」しかりが『カードキャプターさくら』本編においても重要なファクターになっていると感じているからです。

 

 

 

ほら、いるでしょう。本作においてさくらちゃんを一方的に「見る」キャラクターが。

 

 

 

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そう、知世ちゃんです。

 

 

実は、さくらちゃんを「規範的な魔法少女」たらしめているのは知世ちゃんです(タマガワヒロ「カードキャプターさくらは何を達成したのか」)。

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↑以前も挙げた文献ですが『魔法少女アニメ45年史―『魔法使いサリー』から『まどか☆マギカ』まで』(STUDIO ZERO、2012年)所収。

 

 

筆者のタマガワ氏は本論の中で『カードキャプターさくら』を「メタ魔法少女アニメ」として位置付け、「魔法少女アニメ」としての『カードキャプターさくら』の異質性やその変容の在り方を論じるのですが、その中でも「さくらちゃんは『変身しない』魔法少女であり、魔法少女として彼女をドレスアップするのは視聴者のメタファーたる知世ちゃんである」という大変興味深い指摘を行っています。

 

 

ところで、『カードキャプターさくら』はジェンダー批評の観点からも先進的な作品であり、特に恋愛関係の描写はそれはそれは簡単に一言では語れない凄い表象を実現しているのですが、本論ではそれに少し触れるだけに留めておきます。

 

 

知世ちゃんはさくらちゃんが「大好き」であり、それは女友達としての「大好き」とは異なるレベルにある「大好き」と描写されています(端的に言ってしまえば知世ちゃんはレズビアンということになります)。

 

 

ですが、知世ちゃんは「好きな人が幸せであることが自分の幸せである」とさくらちゃんにも公言しており、「一番好きな人(=さくらちゃん)が自分と結ばれなくてもいい」とまで言っています。

 

 

その代わりに「魔法少女コスチュームを作成してさくらちゃんに着てもらい、さくらちゃんの超絶かわいい姿をビデオカメラに収めて自分一人で楽しむ」わけです。

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↑もうこうやって淡々と書くと知世ちゃん完全にヤバい奴

 

 

というわけで、私の『カードキャプターさくら』批評はこのようなジェンダー批評の方向性からやっていきたいと考えています。ジェンダーの問題が大変気になるからです。

 

 

(ここまで知世ちゃんが割を食うような書きぶりになってしまいましたが、本編全体を通してさくらちゃんは知世ちゃんを親友として認識しており、仲睦まじい描写はほっこりとさせます。その意味においては2人の関係を「非対称的な権力関係」と呼んでしまうのは明らかに誤った解釈なのですが、私は「見る」「見られる」という権力関係のみに焦点を絞った議論を展開したいため、このような解釈をとっています)

 

 

4. 終わりに~アニメ研究を、アニオタではなく文学者として行う

言うまでもなく私は「アニメオタク」である(しかし守備範囲はそれほど広くない)わけですが、本ブログで展開していく「アニメを題材にした記事」は出来る限り「研究」の領域に位置づけたいと思って書いています。つまり、単なるいちアニメファンによるアニメ感想記事ではなく、文学研究に従事する大学院生のアニメ批評記事になっていればよいと考えているわけです。

 

 

この辺の信念を文章化すると冗長で退屈な文章になってしまいかねないので、ほどほどのところでやめておきたいですが、これは「文学研究」の認知の増加および研究領域の拡大と、今日の日本における「アニメ文化」の重要性の主張、という2つのレベルで重要性が高いと考えてやっている、ということは申しておきたいところです。

 

 

 

難しいことはさておき、

 

 

カードキャプターさくら』、とにかく素晴らしい作品ですよね。

 

 

文化研究の対象として面白い研究ができればいいなと思う一方で、純粋にいちさくらファンとして「クリアカード編」を楽しく視聴していきたいものです。

 

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↑『カードキャプターさくら』は留学先に "Japanese most graceful animation" として紹介したい 

 

<参考サイト>

nearfuture8.blog45.fc2.com